怡土城
日本の福岡県糸島市にある古代山城の跡 ウィキペディアから
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怡土城(いとじょう / いとのき)は、筑前国怡土郡の高祖山(現在の福岡県糸島市高来寺・大門・高祖)にあった日本の古代山城(分類は中国式山城)。城跡は国の史跡に指定されている。
福岡県の西部、糸島市・福岡市の境をなす高祖山(標高416メートル)の西斜面に築城された古代山城である[1]。奈良時代の天平勝宝8年(756年)から神護景雲2年(768年)にかけて築城された中国式山城で、文献によれば吉備真備のち佐伯今毛人が築城を担当したことが知られる。これまで1936年(昭和11年)以降に発掘調査が実施されている[2]。
城は高祖山の西斜面にたすき状に構築され、北西尾根線上・南西尾根線上に望楼跡が、西山裾に南北約2キロメートルの土塁線が遺存する。また城域からの出土遺物として、多数の瓦片・土器片・塼片などが検出されている。他の古代山城(朝鮮式山城・神籠石系山城)が飛鳥時代の天智天皇2年(663年)の白村江の戦い頃の築城とされるのに対して奈良時代の築城である点で特色を示すほか、文献上で築城担当者・築城期間が明らかな点、他の古代山城のような朝鮮式山城でなく大陸系の中国式山城である点でも重要視される遺跡になる[3]。
怡土城の築城について、『続日本紀』では次のように記載されている[1][5][6]。
築城目的は詳らかでないが、今日では唐の安禄山の乱に対する備えとする説、対新羅政策の一環とする説の2説が特に知られる(考証節参照)。ただしいずれの説としても、怡土城が当時の実戦に使用されることはなかった。また最初の築城担当者の吉備真備については、築城以前に遣唐使として2度入唐したことや兵法に長けた人物であることが知られるが、怡土城築城に際してはその知識が活かされたと推測され、実際に城の様式は大陸系の中国式山城とされる[1][5][6]。なお、吉備真備は当時の朝廷中枢の藤原仲麻呂の政敵であり、吉備真備の怡土城築城は、吉備真備を大宰府に釘付けにする仲麻呂政権の政略でもあった[5][6]。
糸島地方は『魏志』倭人伝の「伊都国」に比定され、古くから栄えた地として知られる[5][6]。律令時代においては高祖山北方に官道(対馬路)や主船司(大宰府機構の1つ、現在の周船寺付近)、南方に日向峠越ルートが立地し、怡土城はそれらを視野に入れた築城プランとされる[1][5][6]。また糸島地方では、他の古代山城として雷山中腹において雷山城(雷山神籠石、糸島市雷山・飯原)の築城も知られる[7]。この雷山城は文献に見えない古代山城(いわゆる神籠石系山城)であり、飛鳥時代頃の築城と推定されるが、怡土城の時期にも烽火として機能したとする説がある[7][8]。なお『続日本紀』文武天皇3年(699年)12月条に見えるが所在不明の古代山城である「稲積城」についても、糸島地方の可也山または火山に比定する説がある[7][9]。
怡土城の築城後について、文献上では詳らかでない。終焉時期も詳らかでないが、第5望楼跡における発掘調査によれば、少なくとも9世紀初頭頃(平安時代前期)までは城として機能したと推定される[10][6]。
怡土城のある高祖山に関連する古代の施設としては、山腹に鎮座する高祖神社(糸島市高祖)が知られる。この神社は、『日本三代実録』元慶元年(877年)条[原 6]の「高礒比咩神(高磯比咩神)」に比定される国史見在社であるが[11]、このように古代山城と古代神社が重複する例は他にも知られる[注 1]。高祖山周辺ではその他にも、前述の周船寺(主船司)など古代に遡る遺称地が遺存する。
なお高祖山の南東方に位置する金武青木A遺跡(福岡市西区金武)では、「怡土城擬大領」・「専当其事」・「別六」銘の木簡が出土しており、これらは怡土城の長官クラスへの伝達木簡であったと推測される[12]。
中世期には当地を治めた原田氏が怡土城を再利用して高祖城を築城した[6]。この高祖城の築城時期は詳らかでないが、古くは文和2年(1353年)と推定される古文書に「原田城」の記載が見え、その後の変遷を経て、天正15年(1587年)に豊臣秀吉の九州征伐により開城のち廃城している[13][10]。
近代以降については次の通り。
城は高祖山の西斜面一帯に構築され、城域は広大で、城域面積は約280ヘクタール(2.8平方キロメートル)を測る[6]。斜面にたすき状(城郭が山頂部から平地部におよぶ)に構築される点で大陸系の中国式山城の様式とされ[3]、鉢巻状(城郭が山の等高線に沿う)の朝鮮式山城とは性格を異にする。城内が容易に見通される構造であることから、攻撃的性格が強い城とも評価される[15]。
城壁としては、高祖山西裾において土塁の構築が認められており、土塁線は南北約2キロメートルにおよぶ[6]。一部の土塁における発掘調査では、強度を高めるために濃縮海水(塩+苦汁)と石灰系材料が混ぜ込まれた可能性が指摘される[6]。
また山麓の土塁の城外側では、濠の存在も認められている[10]。濠は幅約10-15メートルで、かつては水が流れたと推測される[10]。濠に関する記述は『改正原田記』・『筑前国続風土記拾遺』にも見え、江戸時代末期頃までは痕跡を残したとされる[10]。なお風音寺付近における調査では、土塁の城内側でも濠と推測される遺構が検出されたため、一部には内濠も存在したことが想定される[10]。
城壁に開く城門としては、次の2ヶ所において存在が認められている。
また以上とは別に推定城門として、次の2ヶ所においても城門の存在可能性が指摘される。
城壁には、城内の水を城壁外に排出するための水門が開かれたとされる[10]。構造は「盲水門」と称される浸透式のもので、塊石を土塁の基底部に敷き詰めることで、水がその石の間を通って土塁外に排出される[10]。『改正原田記』では水門として「港」・「大鳥居の南」・「大霜」・「風音寺」の4ヶ所が挙げられるが、現在はいずれも遺構がほとんど確認されない状況にある[10]。また小城戸口にも存在が推定され、水門の石組みと、その上に版築土塁が遺存することが認められる[10]。
城域では、現在では計7棟の望楼跡が遺存する[10]。遺構の詳細は次の通り。
以上のほか、『改正原田記』では伊勢城戸周辺で矢倉址が存在したとする[10]。また1936年(昭和11年)の調査で高祖神社南方礎石群(杜辺礎石群)(北緯33度32分39.68秒 東経130度15分36.92秒)・一丁月見礎石群(北緯33度32分28.41秒 東経130度15分31.39秒)が認められていたが、現在までに失われている[10]。
また高祖山の山頂付近においても、奈良時代の須恵器片や瓦片が検出されていることから、この付近での礎石群の存在可能性が高いとされる[10]。
城域内からの出土品としては、多量の瓦がある[6]。その大半は平瓦である一方、丸瓦・軒丸瓦の出土は認められていない[6]。平瓦の完形品は長径約41センチメートル・短径約31センチメートル・厚さ約5センチメートルを測る厚瓦で、重さは約10キログラムにおよぶ[6]。
瓦を焼いた瓦窯の所在地は明らかでない。候補地として、南東方の末永地区で鬼瓦の出土が認められているほか、福岡市元岡地区(元岡・桑原遺跡群)の瓦窯跡で同じ瓦の出土が認められている[6]。怡土城の規模は大きく、築城時期も12年におよぶことから、この2ヶ所のほかにも複数の瓦窯が存在したと推測される[6]。
年月 (旧暦) | 出来事 | |
---|---|---|
735年 | 2月 | 新羅使が国号改称を事後告知 日羅関係悪化(王城国改称問題) |
753年 | 1月 | 唐の朝賀で日本・新羅使者の席次争い |
8月 | 遣新羅大使小野田守が引見出来ず帰国 | |
754年 | 4月 | 吉備真備の大宰大弐任命 小野田守の大宰少弐再任 |
755年 | 11月 | 安禄山の乱の勃発 |
756年 | 6月 | 吉備真備の専当官任命 怡土城築城開始 |
758年 | 12月 | 遣渤海使小野田守の帰国 (安禄山の乱について報告) 大宰府に厳重警戒の命 |
759年 | 6月 | 新羅征討計画の準備開始 |
762年 | 渤海が唐より渤海郡王から渤海国王に新封 (新羅征討計画の条件喪失か[5][6]) | |
764年 | 1月 | 吉備真備の造東大寺長官任命 |
9月 | 藤原仲麻呂の乱 | |
765年 | 3月 | 佐伯今毛人の築怡土城専知官任命 |
768年 | 2月 | 怡土城完成 |
怡土城の築城目的について文献上では明確でないが、今日では唐の安禄山の乱(安史の乱)に対する備えとする説、対新羅政策の一環とする説の2説が有力視される[1][5][6]。それぞれの詳細は次の通り。
安禄山の乱に対する備えとする説では、755年11月に乱が勃発したのち、その余波で安禄山が日本に兵を向ける可能性に備えた築城と推測される[5][6]。特に、この乱の発生が天平宝字2年(758年)12月に遣渤海使の小野田守によって報告された際、大宰府に対して来寇に備えるよう厳命された点が注目される[5][6]。しかし、小野田守の報告は怡土城築城開始の2年後である点、乱の勃発から築城開始までに遣唐使の帰国および渤海使来朝は見られない点(小野田守の報告が初報と見られる点)で、否定的な意見も強い[5][6]。
対新羅政策の一環とする説では、当時は日本・新羅の関係(日羅関係)が悪化しており、それを踏まえた築城と推測される[18]。特に、天平勝宝5年(753年)に唐の朝賀で日本使者と新羅使者が席次争いを起こしているが、この時に吉備真備が遣唐副使であった点が注目される[5][6]。また、築城開始後の天平宝字3年(759年)からは藤原仲麻呂政権下で新羅征討計画が準備されており、この計画との関連性を指摘する説(征討の前進基地とする説)もある[15][5][6]。この新羅征討計画自体は天平宝字6年(762年)を目標に準備が進められていたが、実行されることはなかった[5][6][18]。ただし、このような対新羅政策の一環とする説についても裏付け資料が見つかっていないため、必ずしも詳らかでない[5][6]。
なお、吉備真備・佐伯今毛人がいずれも肥前守を経験している点、怡土城跡には肥前方向の意識も見られる点から、朝廷への帰属意識の低い肥前地方の威圧も怡土城築城の軍事的目的の内に入っていたとする説もある[5][6]。
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