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德川宗家第17代當主 ウィキペディアから
德川 家正(とくがわ いえまさ、1884年(明治17年)3月23日 - 1963年(昭和38年)2月18日[1])は、日本の外交官・政治家。新字体で徳川 家正とも表記される。徳川宗家第17代当主。第16代当主・徳川家達の長男。位階・勲等・爵位は正二位勲一等公爵。最終学歴は東京帝国大学法科大学政治科卒業。称号(学位)は法学士。
德川 家正 とくがわ いえまさ | |
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貴族院議長時代 | |
生年月日 | 1884年3月23日 |
出生地 |
日本 東京府南豊島郡千駄ヶ谷村 (現:東京都渋谷区千駄ヶ谷) |
没年月日 | 1963年2月18日(78歳没) |
死没地 | 日本 東京都渋谷区 |
出身校 | 東京帝国大学法科大学政治科卒業 |
前職 | 官吏(外務省) |
現職 | 団体代表 |
所属政党 | 火曜会 |
称号 |
正二位 勲一等旭日大綬章 公爵 法学士(東京帝国大学) |
配偶者 | 徳川正子 |
親族 |
父・徳川家達(貴族院議長) 伯父・近衛篤麿(貴族院議長) 叔父・津軽英麿(貴族院議員) 叔父・徳川達孝(貴族院議員) 叔父・徳川頼倫(貴族院議員) 従弟・近衛文麿(内閣総理大臣) 従弟・徳川頼貞(参議院議員) |
第13代 貴族院議長 | |
在任期間 | 1946年6月19日 - 1947年5月2日 |
天皇 | 昭和天皇 |
選挙区 | 公爵議員 |
在任期間 | 1940年7月15日 - 1947年5月2日 |
戦前にカナダ公使、トルコ大使など官職を務め、父・家達の死後に家督を継いで襲爵し、貴族院議員となる。戦後は第13代にして最後の貴族院議長を務めた。その他の主な公職及び役職としては、社団法人全国治水砂防協会会長、日土協会会長、恩賜財団同胞援護会会長などを歴任した。
1884年(明治17年)3月23日、徳川家達の長男として東京府南豊島郡千駄ヶ谷村(現:東京都渋谷区千駄ヶ谷)で生まれる。1909年(明治42年)東京帝国大学法科大学政治科を卒業する。同年外務省に入省し外交官補となる。1925年(大正14年)シドニー総領事、1929年(昭和4年)カナダ公使、1934年(昭和9年)トルコ大使となる。1937年(昭和12年)に外務省を退官した。
1940年(昭和15年)7月15日、父の薨去に伴い公爵を襲爵し、貴族院議員となる[2](火曜会所属[1])。1946年(昭和21年)に最後の貴族院議長に就任し(最後の貴族院副議長は一橋徳川家の徳川宗敬)、貴族院と華族制度の廃止を見届けた。
1963年(昭和38年)2月18日午後6時、心臓病のため東京都渋谷区大山町1064番地の自宅で死去。満78歳没[3]。墓所は寛永寺。正二位に叙され勲一等旭日大綬章を追贈される。また貴族院の後身である参議院を代表して参議院議長の重宗雄三からは、最後の貴族院議長として憲政の発展に尽くした功績を称える弔詞が贈られた[4]。
妻は薩摩藩主島津忠義の十女・正子(なおこ)で、その結婚は2人が誕生する前に、13代将軍徳川家定の正室であった天璋院の遺言によって既に決められていた[26]。また、忠義の五女・知子と再婚した叔父の徳川達孝とは義兄弟の間柄でもある。
家督については、長男の家英(いえひで)が先立って死去したため、徳川宗家の断絶を恐れた家正は長女の豊子と会津松平家の松平一郎との間に生まれた次男の恒孝を養子とし、家正死後に恒孝が徳川宗家第18代当主となった。なお、恒孝の父方の祖父である松平恆雄は第1回参議院議員通常選挙に当選し、第1回国会の議長選挙で初代参議院議長に選出されている。
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