張 錫鑾(ちょう しゃくらん)は清末民初の軍人・政治家。字は金波、今坡、今頗。
幼い頃は父に従って武を学び、その後国子監生となった。同治2年(1863年)から武昌で軍務に就く。光緒元年(1875年)からは地方官となり、通化県知県、錦州知県などを歴任した。光緒20年(1894年)、奉天前後三営統領兼鴨緑江団練などの職に就く。日清戦争終結後は直隷海防営務処総弁、興化知府(福建省)、北洋営務処兼発審処総弁などを歴任した。
光緒27年(1901年)、奉天省に戻り、東辺道兼中江税務処監督、中軍各営統領、巡警総弁、全営翼長、安東開埠局総弁などをつとめた。光緒33年(1907年)、奉天営務処総弁に任命され、さらに奉天度支副都統に転じた。光緒34年(1908年)、淮軍全軍翼長に就任した。宣統3年(1911年)、会弁奉天防務、東三省辺務大臣に任命された。
中華民国が成立すると、民国元年(1912年)3月に初代直隷都督(ただし署理、すなわち事務取扱い)に任命された。同年11月、奉天都督兼奉天民政長(民国3年(1914年)6月、奉天将軍となる)に異動した。翌民国2年(1913年)6月には、吉林都督も兼任している。民国4年(1915年)8月、湖北将軍に転任したが、同省の実力者である王占元の抵抗に遭い、結局、北京政府中央に留まった。この際に、袁世凱の皇帝即位を支援し、12月に一等伯に封じられている。
民国11年(1922年)、病没。享年80。