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天津武備学堂を卒業。1895年(光緒21年)、袁世凱が組織した新建陸軍に加入する。督隊稽査先鋒官、左翼歩兵第2営統帯、北洋常備軍軍政司参謀処総弁、天津南段警察局総弁などを歴任した。1908年(光緒34年)、布政使署理黒竜江巡撫に就任し、さらに北洋第3鎮統制に就任した。
辛亥革命勃発時には、武衛右軍右翼翼長に就任する。1912年(民国元年)、拱衛軍司令に就任した。1913年(民国2年)、江西宣撫使兼第2軍軍長となる。さらに、二次革命(第二革命)鎮圧の功績から、湖北都督に昇進した。
1914年(民国3年)、彰武上将軍に封じられ、督理湖北軍務(いわゆる湖北将軍)に就任した。1915年(民国4年)8月、鎮安上将軍に遷り、督理奉天軍務(奉天将軍)兼巡按使に就任した。袁世凱の皇帝即位を支持し、12月、一等公爵に封じられた。しかし、東北に地盤を広げようとする張作霖らから圧力をかけられ、段は1916年(民国5年)4月に、奉天将軍等を辞任した。
6月に袁世凱が死去すると、段芝貴は段祺瑞率いる安徽派に加わった。1917年(民国6年)7月の張勲復辟の際には、段芝貴は討逆軍東路司令に任命されて張勲を撃破し、輔威上将軍に封じられた。1918年(民国7年)1月、陸軍総長に就任した。翌年1月、京畿衛戍司令に異動した。
1920年(民国9年)7月の安直戦争では、定国軍西路総司令として直隷派と戦ったが敗北する。指名手配を受けた段芝貴は、天津の租界に逃げ込み、完全に政界・軍界から引退した。
1925年(民国14年)3月、死去。享年57。
中華民国(北京政府)
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