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歌舞伎役者 ウィキペディアから
二代目 市川寿猿(にだいめ いちかわ じゅえん、1930年(昭和5年)5月20日 - )は、歌舞伎役者。東京都出身。屋号は澤瀉屋。定紋は三ツ沢瀉(喜猿時代の定紋は「桔梗鶴」[2])。澤瀉屋一門の長老格[3]にして、歌舞伎界全体でも2024年(令和6年)現在、現役最高齢の役者[4]。
東京(当時東京市)・浅草生まれ[4]。3歳で女かぶきの坂東勝治一座に入門。女かぶきは女性の役者を中心に歌舞伎の演目を見せる芸能で、坂東勝治一座は全国を巡業する旅芸人の一座だった。舞台を志したのは役者になりたかったのになれなかった実母に託されたためと本人は語っている[4]。戦後の1947年(昭和22年)八代目市川八百蔵(のちの八代目市川中車)に入門し、市川七百三郎を名乗り大歌舞伎の世界へ入る。1949年(昭和24年[注 1])、三代目市川段四郎に入門し、市川段三郎と改名。1955年(昭和30年)1月に二代目市川猿之助一門に移り市川喜太郎と改名。1957年(昭和32年)4月に市川喜猿を四代目として襲名、名題に昇進。1974年(昭和49年)重要無形文化財の総合認定を受け、伝統歌舞伎保存会会員に。1975年(昭和50年)二代目市川寿猿を襲名。2000年(平成12年)に幹部昇進[3]。
『かぶき手帖』2019年版では「米寿を迎えてますます気力も体力も充実」と評され[5]、堅実な芝居とともに「スーパー歌舞伎Ⅱ」などの新作でも柔軟に活躍している。2015年(平成27年)には歌舞伎座で『黒塚』の剛力を勤め、2022年(令和4年)には92歳にして史上最高齢でゴンドラに乗り宙乗りを勤めた[4][6]。澤瀉屋一門を5代の長きにわたり支え、二代目市川猿之助(初代猿翁)の薫陶を受けた貴重な存在として歌舞伎界の生き字引として歌舞伎界でも尊敬を受ける[7]。
1973年(昭和48年)刊の季刊<歌舞伎>編集 『歌舞伎俳優名鑑』では「若い割に芝居を知っているといわれる」と評されている[2]。
舞台に出るのが健康の秘訣と語り[6]、現在でも自宅のある千葉県の団地からリュックサックを背負い電車で劇場や稽古場へ通う[6]。台本はパソコンで打ち直し、印刷して持ち歩く。X(旧Twitter)アカウントを自身で更新している[4]。
2024年体調不良のため出演予定であった10月の博多座「スーパー歌舞伎 三代猿之助四十八撰の内 ヤマトタケル」の休演を発表(代役は市川欣也)[8]。寿猿は同演目初演以来1000を超える全公演皆勤賞の俳優の一人[6]であったが、その連続記録は途絶えた。本人公式Xを更新し、脳梗塞であったと明らかにした。大きな後遺症はないという[7]。
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