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川崎公害(かわさきこうがい)または公害病の川崎喘息(かわさきぜんそく)とは、昭和戦前期から昭和戦後期にかけて神奈川県川崎市でぜんそくなどの健康被害を出した日本の大規模公害。
京浜工業地帯の中心地域である、神奈川県川崎市は戦前からの大気汚染の町であった。戦後の工業復興で、川崎市の公害被害が復活して、近隣の神奈川県横浜市でも、横浜公害による横浜ぜんそくも発生した。
大気汚染の発生源としては、国の高度経済成長政策の元で、石炭から石油への政治的エネルギー政策の転換が行われて、川崎地区に大型コンビナートと道路網が建設されたことが、その原因とされる。
鉄鋼産業については、鉄鋼第一次合理化計画(1951年 - 1955年)と鉄鋼第二次合理化計画(1956年 - 1960年)が構想された[1]。また、通商産業省は昭和30年度を始期とする石油化学工業育成計画を構想した。1955年から1960年にかけての第1期石油化学計画では四日市市・新居浜市・岩国市・川崎市を拠点開発した[2]。
川崎市内の日本鋼管川崎製鉄所(現・JFE スチール東日本製鉄所)は第一次世界大戦が起きた1914年に第一号平炉さが稼働した[3]。創業当初工場敷地10万平方メートル・工場労働者数約50人だった工場は、条網・鋼管・合金板・鋼板と製品を拡張したことで、1918年には約50万平方メートル・約4000人へと拡大した。1936年に扇町工場が完成、1941年に水江工場の建設が着工されるなど、太平洋戦争前に有数の規模となっていた。高度経済成長期の1968年には工場労働者数2万6000人まで規模が拡大した。川崎・水江・鶴見の3つの製鉄所が統合して京浜製鉄所と呼ばれるようになり、1971年に扇島埋立地に起工式が実施された。1979年に二号高炉に火入れが行われたが、環境庁から窒素酸化物の環境対策不十分との指導を受け、焼結工場の排ガス処理設備のみ脱硝装置が設置された。
東京電力は京浜工業地帯のエネルギー源として1927年に鶴見火力発電所を稼働させた。その後潮田火力発電所と川崎火力発電所の建設をおこない、さらに昭和50年代には液化天然ガスの火力発電所を建設した。
昭和29年度に第一次道路整備5か年計画が構想された。昭和34年度に第二次道路整備5か年計画が構想された。
1960年代から1970年代にかけて四日市公害など日本各地で大気汚染による公害が深刻な社会問題になった。工業地域では四日市ぜんそくなどで住民の健康被害が増加していた。1972年(昭和47年)7月24日の四日市公害裁判の勝訴は大気汚染を発生させた企業への損害賠償責任を認める判例となった。四日市公害裁判の勝訴が川崎公害裁判提訴へのきっかけとなった。1980年代に公害が発生する汚染地域だった三重県四日市市の環境は公害対策で改善されたが、川崎市は昭和末期になっても公害による大気汚染が現在進行形の問題となっていた。昭和30年代に産業の中心が石炭エネルギーから石油産業に転換すると川崎市に公害が発生した。昭和戦後期の川崎公害で川崎市の住民の健康被害が深刻になった。1960年代に入ると川崎市は公害条例を制定するなどの公害対策をおこない、住民も市民運動を起こした。1970年代には川崎市独自の公害病認定と医療費負担を実施するが、認定患者は1年目で316名にのぼった。特に弱者である高齢者や子供に被害が多く、小児ぜんそくの患者のために養護学校が作られた。また、公害患者を中心に公害病友の会を結成するなど、公害撲滅に向けた運動がおこなわれた[4]。
しかし、昭和50年代になっても川崎市では大気中の窒素産物や粉じんが環境基準を上まわっていた。川崎市では年々新たな公害病患者が認定されてその数は5052人まで増加し[5]、死者は昭和60年度の統計で787人となっていた[6]。
昭和42年の四日市公害訴訟の勝訴、昭和53年の西淀川公害訴訟など大気汚染で企業や国家を訴える民事裁判が当たり前になっていた。昭和50年代には日本国内で大気汚染公害訴訟が容易にできる社会情勢になっていた。四日市公害裁判勝訴の原動力となった革新政党や環境運動家の強い応援があり、「川崎公害病友の会」を母体とした川崎公害裁判の原告団を結成した。昭和戦後期に長期間にわたり川崎公害の健康被害を受けた患者と家族、公害病で死亡した患者および自殺した患者の遺族128人は[7]、昭和57年3月18日に横浜地方裁判所川崎支部に、東京電力などの民間企業と、首都高速道路公団と日本国政府を相手どって、総額26億3000万円の損害賠償と環境基準を超える大気汚染物質の排出差し止めを求める裁判を起こした(第1次訴訟)。
原告側は、以下の2点を求めた。
原告となった患者は『夜が来るのが恐ろしい、咳と発作が夜中に襲ってくる』『大勢の公害患者が苦しみながら死んでいく。私たちの要求は人道的に正当性のある戦いだ』といった内容を訴えた。
このあと1983年から1988年にかけて、第2次 - 第4次の訴訟が起こされている[8]。
被告らは、1991年の弁論で川崎公害患者の訴えは公害病でなくて、心臓ぜんそくや肺結核のよるものだという偽患者論を展開して、病名に疑義をはさめない場合は、タバコの吸い過ぎやアレルギー症状だという他病気他原因論を主張した[9]。
四日市公害裁判など、従来の個別企業やコンビナート関連企業を相手とする裁判と異なり、多くの課題と困難をともなう裁判であったが、原告側は川崎市民の支持と多くの法律家と専門家の協力を得ながら、産業政策・交通道路政策を問題とした。原告団の支援のため、全国の環境問題に取り組む市民運動と環境研究者の組織である日本環境会議が、1986年11月に川崎市で第6回会議を開催した。
第1次訴訟は、1994年1月25日に判決が出された。判決骨子は以下の通り。
この判決に基づき原告弁護団は『加害企業に勝訴』の垂れ幕を掲げた。川崎訴訟原告団・弁護団との交渉により[12]、国は『川崎南部地域の道路改善のための道路整備方針』を発表した[13]。
判決時点では提訴から12年が経過しており、判決を聞かないまま公害病で死亡した原告男性がいた[14]。
1998年8月5日に第2次 - 第4次訴訟に対する判決が出され、この中では第1次訴訟では否定された二酸化硫黄・二酸化窒素・浮遊粒子状物質と健康影響との因果関係を認め、国と首都高速道路公団に対して賠償を命じた[8]。
これらの判決に対して原告・被告の双方が控訴したが、1996年12月25日に企業、1999年5月20日に国・首都高速道路公団とそれぞれ東京高等裁判所で和解が成立した[8]。1996年の企業との和解では、企業側から解決金31億円の原告への支払と公害防止対策努力が盛り込まれた[8]。1999年5月20日の和解内容は以下である[15]。
など[16]。
出典は『環境公害教育に生きる・生徒・父母・市民とともに歩みつづけて』川崎公害212頁。
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