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山口 正定(やまぐち まささだ、1843年10月18日(天保14年9月25日)- 1902年(明治35年)3月21日[1])は、幕末の水戸藩士、明治期の侍従・海軍軍人。茨城県権参事、侍従長、宮中顧問官、海軍大佐、男爵。通称・徳之進[1]。明治天皇の側近[2]。
水戸藩士・山口正直の長男として生まれる。尊皇攘夷派として活動。万延元年(1860年)、大番組となる。文久3年(1863年)、藩主徳川慶篤の上洛に随行し、京都の警護に従事。慶応4年(1868年)、藩政を勤皇に回復するよう命ずる勅を奉じて帰藩した。同年7月、北越追討軍を編成して戊辰戦争に出征[1][2]。
明治2年7月18日(1869年8月25日)、水戸藩権大参事に就任。以後、 大参事、権大参事を務めた[3]。廃藩置県後は水戸県に引き続き出仕し[3]、明治4年11月14日(1871年12月25日)、茨城県が成立すると権参事に就任。明治5年7月20日(1872年8月23日)に免官となる[4]。
同年8月2日(9月4日)、侍従に就任。三等侍補を経て、1878年12月、海軍中佐兼侍従長となる[3]。佐々木高行と共に明治天皇と海軍との円滑な関係を保つことに努めた[2]。1886年7月、海軍大佐に昇進し、1888年12月、予備役、1898年9月、後備役となる[3]。
1892年11月、兼宮内省四等出仕となる。以後、侍従、宮内大書記官・御猟場掛長、宮内書記官、主猟局長官、主猟局長兼主殿頭(死去まで在任)などを歴任。1896年6月5日、男爵を叙爵[5]。さらに、兼大喪使事務官、図書頭代理、兼宮中顧問官(死去まで在任)を務めた[3]。墓所は染井霊園。
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