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1876-1957, 詩人、歌人、書家、国文学者 ウィキペディアから
尾上 柴舟(おのえ さいしゅう 1876年〈明治9年〉8月20日[3] - 1957年(昭和32年)1月13日)は、日本の詩人・歌人・書家・国文学者。文学博士[4]。帝国芸術院会員[5]。勲二等瑞宝章受章者。旧名は北郷八郎[6]。
岡山県苫田郡津山町(現・津山市)出身[3][注釈 2]。本名は尾上八郎[1]。元津山藩士・北郷直衛の三男として生まれ[3]、同藩士・尾上動の養子となった[3]。津山小学校高等科を卒業の後、父の転勤で兵庫県龍野(現・たつの市)に移住する。東京府尋常中学[3]、一高を経て[3]、東京帝国大学文科大学に進み[13]1901年に卒業[3][14]。哲学館(現・東洋大学)講師[15][16]、東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)講師・教授(1905年[17][18]–)、高等官6等に叙せられて「第6臨時教員養成所」の教授を兼ねる(1906年[19][20][21][22]–1907年度[23])。早稲田大学高等師範部(現・早稲田大学教育学部)教授を経て[3]、1908年から女子学習院(現・学習院女子大学)教授[3][23][24][注釈 3][26]。1943年に東京芸術大学に講師としておもむき[27]、1946年に東京女子高等師範学校の名誉教授[6]。
1914年、東京大正博覧会で最高賞の銀牌を得る[28]。1923年、『平安時代の草仮名の研究』[29][注釈 4]で文学博士[30]。1937年には書家として帝国芸術院会員[30]。1946年に東京女子高等師範学校名誉教授、1949年に歌会始選者に選ばれると、取りやめとなった1952年[31][32]を除き没年までつとめた[42]。日本学士院会員[40]。
一高時代に落合直文に師事、1900年の歌会始に出席[43]。翌1901年に『ハイネの詩』を刊行[3][44][45]。また、金子薫園と共に『叙景詩』を刊行し[3]、『明星』の浪漫主義に対抗して自然主義文学の影響を受けた「叙景詩運動」を推し進めた[3]。1910年に発表した「短歌滅亡私論」は大きな話題を呼び、口語短歌も含めた大正~昭和初期の短歌改革の前哨戦となった[2]。1914年4月、石井直三郎、岩谷莫哀らとともに歌誌『水甕』(みずがめ)を創刊し、主宰者となる[46][47][注釈 5]。
書道では大口鯛二に師事[28][30]。粘葉本『和漢朗詠集』[26]を研究して古筆の書風を再現したほか[30][注釈 6]、漢字と仮名を調和させる調和体[注釈 7]を追及し、「昭和の藤原行成[30]」と称された。また、柴舟が教員検定試験(通称文検[54])の試験委員[55][56][注釈 8]を務めたことで、平安古筆が中等教育における模範[61]として浸透定着した[28]。一方で、大字仮名を推進する安東聖空や上田桑鳩からは批判を受けた[28]。
1945年12月、日本書道美術院結成に参画。初代会長に就任する[62]。 1957年1月6日、歌会始[41]から帰宅した後に意識不明となり、1月13日、流行性感冒(インフルエンザ)に狭心症を併発して東京都文京区白山御殿町(現・白山)の自宅で死去[63][72]。
日本画家の川合玉堂との親交が厚く、書画の作品には柴舟が書をしたため、玉堂が画を描いたものが多く見られる[3]。
没した1957年に遺墨展[注釈 9]、生誕100年に東京セントラル美術館(1975年[74])、同130年には成田山新勝寺境内の成田山書道美術館(2005年[75])ならびに日本書道美術館(2006年[76])で回顧展が開かれた。
『文科学術談話会々誌』(文科学術談話会)に掲載。
「中国名裁判物語」シリーズ、ぎょうせい〈法律のひろば〉に収載[83]。
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