小倉昌男
日本の実業家 ウィキペディアから
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小倉 昌男(おぐら まさお、1924年12月13日 - 2005年6月30日[1])は、日本の実業家、ヤマト福祉財団元理事長。ヤマト運輸の『クロネコヤマトの宅急便』の生みの親である。東京都出身。
小倉康臣の次男として代々木に生まれた(長男は早世)[2]。1937年幡代小学校卒業。同年、当時府立一中を上回る最難関の官立東京高等学校尋常科(現・東京大学教育学部附属中等教育学校)に入学。1942年秋、東京高等学校高等科卒業。1943年秋、東京帝国大学経済学部入学。1947年、東京大学経済学部(旧制)卒業。1948年、父・小倉康臣が経営する大和運輸(現・ヤマトホールディングス)に入社。
入社後半年で肺結核を患い4年間の入院生活を送るが、大和運輸がGHQ関連の輸送業務を担当していた為、日本国内ではほとんど入手困難だったストレプトマイシンを米軍ルートで入手できた事もあり、当時としては奇跡的に回復。退院後静岡県の子会社の再建を手がけたのち本社に復帰し、1961年に取締役となる。
1971年、康臣の後を継いで代表取締役社長に就任した。1976年、オイルショック後に低迷していた大和運輸の業績回復のため、『宅急便』の名称で民間初の個人向け小口貨物配送サービスを始めた。サービス開始当時は関東地方のみだったが、その後、配送網を全国に拡大し、ヤマト運輸(1982年に商号変更)が中小の会社から売上高一兆円の大手運輸会社に発展する基礎を築く。1987年、代表取締役会長に就任。
宅配便の規制緩和を巡り、ヤマト運輸が旧運輸省(現・国土交通省)、旧郵政省(現・日本郵政グループ)と対立した際、企業のトップとして先頭に立ち、官僚を相手に時には過激なまでの意見交換をした。理不尽な要求に毅然として立ち向かう様子は一貫しており、1979年には創業以来の取引先である三越が、岡田茂社長の就任以後運送費の大幅引き下げ・映画チケットの大量購入など理不尽な要求を繰り返す様子に耐えかね、同社に対し取引停止を通告した事もある(詳しくは三越事件を参照)。この様子は両社のシンボルマークに引っ掛けて「ネコがライオンにかみついた」として話題となった。
一方、1974年から1984年まで旧建設省(現・国土交通省)の道路審議会の委員、1985年から1996年まで道路審議会基本政策専門委員を務めた。陸運業である事から、採算性が疑われる高速道路の建設を推進したが、後に日経ビジネス誌にて自らを「国賊」と反省の弁を述べている。
1991年に代表取締役相談役。1993年に名誉会長を経て、1995年に退任した後は、ヤマト福祉財団理事長として障害者が自立して働く場所作りに取り組んでいた。また、「郵政民営化」を唱えた小泉純一郎首相との親交でも知られていた。
老年になってから足が弱り、杖を使用して歩行をしていた。股関節骨折を発症し金属製のボルトを挿入して大腿骨頭を固定する外科手術を受けている。飛行機などに搭乗する際に金属探知機に毎回反応するため、その度に説明をすることが億劫になり、金属で補強された部位のレントゲン写真と同じ画像をテレホンカードに加工してもらい常に携帯。分かりやすい写真を提示して最小限の言葉を添えれば十分説得力があるから、と語っていた。
2005年6月30日、アメリカ・ロサンゼルスの長女宅で死去。享年80[3]。
個人の信仰としては、救世軍の信徒であり、妻はカトリック教徒であった。晩年は妻に合わせてカトリックに帰正した。
長男は、ヤマト運輸の現法人(旧法人は、現在のヤマトホールディングス)初代社長の小倉康嗣であるが、康嗣が退任後は小倉家とヤマト運輸は無関係となっている。長女の真理・ダウニィは雙葉高校、宝塚音楽学校を経て雪組で活動した経験を持ち、再婚した元米国海兵隊員とロサンゼルスで暮らす[4]。
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