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日本の三重県三重郡にあった村 ウィキペディアから
富洲原町(とみすはらちょう)は、かつて三重県に存在した自治体である。朝明郡、のち三重郡所属。
現在の四日市市富洲原地区に相当する。朝明郡富田一色村・天ヶ須賀村・松原村を統合し、1字ずつをとって「富洲原」と称した。富田一色・天ヶ須賀・松原の3大字で構成された。大正時代に軽工業が発達して若い女性人口比率の多さが日本一の多い地方自治体であり、女性人口が多い地域であった。人口が急増して1万人を突破したため、1923年(大正12年)に町制を施行して三重郡富洲原町となるが、1941年(昭和16年)に四日市市に編入され消滅した。
昭和10年代に三重郡富洲原町・三重郡富田町・三重郡大矢知村の3カ町村を合併する「朝明市」構想ができる。富田町と富洲原町の主導権争いから合併が困難となり大四日市構想から1941年(昭和16年)2月11日の紀元節に日永村・羽津村・常盤村・富田町と共に四日市市へ合併して、四日市市富洲原地区となった。
1941年(昭和16年)2月11日の紀元節に三重郡富洲原町が四日市市に合併した際に旧富洲原町の合併条件である富洲原地区選出の議員数は3人で以下の3名が地区別で割り当てられた四日市市議会議員となった。
三重郡富洲原村長は、以下の政治家が務めた。
三重郡富洲原町長は、以下の政治家が務めた。
1907年(明治40年度)に消防団が富田一色と天ヵ須賀に組織された。各組に小頭2名と消防手33名を有した。その後1917年(大正6年度)に松原消防団を編入して、各地区単位総勢107人からなる富洲原消防団が結成された。3地区と学校には手動ポンプが配置されて、1923年(大正12年度)には3地区にガソリンで動くポンプが増設された。
1927年(昭和2年)に政府によって貧困対策者を対象に生活保護に類似する機能として公益質屋法が制定された。戦前の社会保障制度であり低所得者のために民営の質屋より安い利子で生活資金と生業資金を融通して庶民の福利増進を図る事となり、公営の質屋の出現となった。三重郡富洲原町が貧困対策として生活困窮者とために1929年(昭和4年)5月、社会銀行の低利子資金14000円を借り受けて、8月より三重郡富洲原町営の公益質屋が、富田一色南町西端に木造小屋造りで一部二階建てを公益質屋の店舗として三重郡富洲原町によって設立された。ところが三重郡富洲原町が四日市市に合併して四日市に吸収されて富洲原地区となり、四日市市営公益質屋となり、2名の四日市市職員が執務していたが、高度経済成長期の高所得化で貧困者が激減する時代の移り変わりで廃止された。昭和50年代に公益質屋の建物は富田一色の青少年センターとして保存された[13]。
三重郡富洲原町の伊藤平治郎などの政治家による上水道網と下水道網の設置の理由になった疫病のトラホームは、富田一色を中心に天ヶ須賀地区も加える漁師町では潮水を盛んに沿岸地域に使用する関係からトラホームが発生しても完全に治療するのが困難で長期間にかけて富洲原地区内で流行していた。三重郡富洲原町はトラホーム対策として1933年(昭和8年)にトラホーム患者のために洗眼所を設置して、毎日洗眼方法による治療が可能となった。1941年(昭和16年)の三重郡富洲原町から四日市市合併後に四日市市冨洲原地区となった後も洗眼所及び洗眼治療も引き継がれている。昭和21年度より四日市市冨州原町(松原西元町商店街)に開所されて、寺本家の女性が洗眼の従事をしていた。四日市市衛生課の調査によると、洗眼料金及び昭和時代の利用状況は以下である。昭和50年代の利用者は大部分が70歳以上の高齢者で、トラホーム治療の洗眼を目的とする人は戦後期の半数以下で、普通の目の病気を治療する洗眼が急増している。利用者は固定客が多く、年齢も似通った老人が多いため、お互い知り合いの顔なじみで気心が通じ合っており、世間話をして暇つぶしをする。家庭の事情や悩み事などの相談をして互いに慰め合っていた。洗眼係の女性が良き聞き役となり地区民の相談相手となっていた。老人によって、庶民的なささやかな憩いの場として、小規模の老人ホームのような存在となっていた[14]。
洗眼料金は以下の推移である。
利用者数は昭和49年度19,527人、昭和50年度20,660人で、1か月利用平均1,720人、1日平均70人。
元々富洲原地区(富田一色村・天ヶ須賀村・松原村)の墓地施設や火葬場など死人を供養する宗教施設は松原村・富田一色村・天ヶ須賀村の各村に設置されていた。さらに江戸時代以前にさかのぼれば小集落毎に設置されていたと推定されるが、各小字毎に墓地・火葬場が設置されていた記録は見当たらない。近代になり富洲原火葬場が設置されて、同じく墓地として三重郡富田町大字東富田の代官町地内に一部大字に残してまとめられた。1925年(大正14年)5月に東富田代官町地内(現在の前田医院があるところ)から四日市市平町24番地内に移転されて、四日市市役所富洲原出張所の所管となった。火葬場の右隣にある建物は通称位牌堂といって、日清戦争・日露戦争・満州事変・日華事変・太平洋戦争において戦死した戦死者(「英霊」)を遺族の希望によって慰霊して祀る所で昭和50年代に396柱を祀ってある。毎月15日には富洲原地区の各寺院の住職の奉仕活動により、富洲原地区の戦死者の遺族が集結して供養を続けており、毎年お盆の8月15日は富田一色地区代表・天ヶ須賀地区代表・松原地区代表と遺族が出席して盛大な供養と法要が行われている[15]。
工業、商業、水産業、農業、交通業、公務員及び自由業、その他、無職業の8区分に分けて記述する。
人口の49.6%が工業に従事していた。
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