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日本の花火大会 ウィキペディアから
安倍川花火大会(あべがわはなびたいかい)は、静岡県の安倍川沿い(葵区の安倍川橋上流、安西橋下流左岸周辺)の河川敷において毎年7月最終土曜日に行われる東海地方でも有数の花火大会である。
安倍川花火大会 Abekawa Fireworks Festival | |
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安倍川花火大会 (2022年7月) | |
概要 | |
正式名称 | 安倍川花火大会 |
開催時期 | 7月最終土曜日 |
初回開催 | 1953年(昭和28年)8月 |
会場・場所 | 静岡県静岡市葵区田町七地先(安倍川橋上流、安西橋下流左岸周辺)河川敷 |
打ち上げ数 | 約15,000[1]発 |
主催 | 安倍川花火大会本部[1] |
後援 | 公益財団法人するが企画観光局、静岡商工会議所、NHK静岡放送局、静岡新聞社、静岡放送、テレビ静岡、静岡朝日テレビ、静岡第一テレビ、76.9FM-hi[1] |
協力 | 静岡市[1] |
運営 | 安倍川花火大会本部[1] |
人出 | 約35万[2]人(2022[1]年) |
最寄駅 | 静岡駅、新静岡駅[1] |
外部リンク | 安倍川花火大会 |
備考: 荒天の場合中止[1] |
花火大会の開場である安倍川は、静岡県と山梨県の境を通り流域が静岡市内にあり、静岡市の市街地の西側を流れて駿河湾に注いでいる。江戸時代初頭、徳川家康によって天下普請として大規模な治水工事が行なわれ、また、防衛上の理由から橋の架設が認められなかったことから、旅人は渡し船や川渡し人足の肩車や輦台に乗って渡った。安倍川は水が綺麗なことで知られ、2008年(平成20年)には環境省から「平成の名水百選」に選定されている。
天文12年(1543年)、種子島にポルトガル人によって鉄砲と爆薬物とその製法も併せて伝えられた[3]。軍事用として鉄砲、大筒、狼煙などに活用され、関ヶ原の役や天草の乱が終わった徳川泰平期には観賞花火へと移っていった[3]。そして慶長5年(1600年)頃、細川幽斎の家臣・稲富の砲術家・伊賀守直家は、細川家を追放され徳川家康に仕えたが、その後、尾州家お預けで尾州家の砲術師範として貢献した[3]。慶長17年(1612年)、足助八幡社に『扇的打図』という花火に関する偏額に「尾州藩稲留派先生当国住岩神村沢田四郎衛門行年78才」と記し献納されていることから、稲富直家の門人が花火技術を伝えた資料と考えられている[3]。
花火を日本で最初に観たのは徳川家康という定説がある、『駿府政事録』には「慶長18年(1613年)8月3日、明国の商人がイギリス人を案内して駿府城に徳川家康を訪ね、家康に城の二の丸で花火を供覧した。」との記述がある[4]。三代将軍家光も花火が好きだったそうで、諸大名も好んで納涼の催しとして花火を楽しんだ[4]。尾張、紀州、水戸の親藩、仙台、加賀など雄藩の花火は特に人気があり、江戸市民も夕涼みを兼ね花火見物をした[4]。
第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)6月19日深夜から20日未明、米軍のB-29爆撃機137機が旧静岡市(現在の静岡市葵区・駿河区)を襲った(静岡大空襲)[5]。静岡市は焼け野原となったが、昭和20年11月、戦災復興院により「戦災都市復興計画」が策定され復興への道を歩み出し、基本方針に基づき区画整理事業や上水道事業などが開始された[5]。また、応急簡易住宅3,293戸が建設された[5]。
街が復興へ歩み始めた昭和20年代後半、静岡大空襲の記憶を風化させてはならないと田町学区の元静岡市議で青年団長の杉山伊三雄らから「安倍川で花火を上げよう」という声が上がった[5]。田町に住む元青年団だった村松仁平は、二尺玉を打ち上げるための資金集めを行い[注 1]、統治下だった連合国軍総司令部(GHQ)の許可を得た[注 2][5]。
第1回の開催は1953年(昭和28年)8月、静岡西部発展会により、安倍川川原の安倍川橋と東海道線鉄橋の中間において「東海道花火大会」として行われた[6]。第2回と第3回は、地元の木工業界との協力により「木工祭花火大会」として、行政中心の城内の堀に移して行われた[6]。第4回の花火大会より安倍川花火大会となり、安倍川の河原で行われるようになった[6]。
打ち上げ開場の安倍川の河原は大勢の市民でにぎわい、安倍川周辺では露店が連なり繁盛した[注 3][5]。2尺玉は大きな音とともに大輪の花火が夜空を焦がした[5]。村松は花火の打ち上げにより「街が元気付いたように思う」といった、この花火大会についての記録はないが、安倍川花火大会が始まるきっかけになった[5]。
安倍川花火大会の日には、花火大会主催者による恒例行事として、戦没者などを追悼する慰霊祭が葵区の安倍川河川敷で執り行われる[5]。感応寺住職の伊藤通明は半世紀以上にわたって導師を務める[5]。伊藤は学徒出陣で佐賀県唐津で終戦を迎え、静岡大空襲で焼失した寺の再建に奔走した[注 4][5]。第1回の花火大会を見た時「平和っていいな」としみじみと感じたことを覚えているという[5]。
静岡市の復興が進み、1955年(昭和30年)には、感応寺の本堂は鉄筋コンクリートになり、伊藤は父に代わって戦没者慰霊祭の導師を務めるようになった[5]。花火大会を毎年迎えるたびに、伊藤は空襲で亡くなった人たちもこの花火を見て喜んでくれているだろうかと思いを新たにしている[5]。
2015年(平成27年)6月20日、戦後70年の節目として、静岡大空襲で犠牲になった静岡市民と墜落した米軍爆撃機B-29の搭乗者23人を弔う「日米合同慰霊祭」が、葵区の賤機山に立つ慰霊碑前で執り行われた[7]。遺族や自衛隊関係者、米軍横田基地の儀仗隊員ら約200人が出席した[注 5][注 6][7]。駿府城公園では「静岡空襲犠牲者追悼のつどい」が開かれた[7]。
2018年、2019年は台風の影響で中止され、2020年と2021年は新型コロナウイルスの感染防止対策により中止された。そして5年ぶりとなる2022年、第69回安倍川花火大会は7月23日に開催された[8]。今回の開催に於いても、新型コロナウイルス感染拡大防止対策として、開催時間を例年の2時間から1時間に短縮し、観覧席は桟敷席を設置しない。打ち上げ場所も1カ所から4カ所に増やした[9][10]。また、悪天候の場合の予備日は設けず中止とした[9][10]。
東京ディズニーリゾートの開園40周年を記念したドローンショー
2023年7月22日、東京ディズニーリゾートの開園40周年を記念したドローンショーが行われた[11][12][13][14][15]。東京ディズニーリゾートを運営するオリエンタルランドがドローンショーを行うのは、今回が初めてとなった[11][15]。会場ではディズニーソングに合わせ、15分間で約700機のドローンを使い、ディズニーのキャラクターなどを描いた[11][12][13][14]。
花火技術は日本は世界一といわれており、とくに打上花火の割物花火の技術が高い[16]。
代表的なのは枠仕掛で、丸太で組んだ櫓に絵形や文字などを浮だたせる[17]。
昭和60年(1985年)に打上花火の点火方法が変わった、それまでは花火師が火種を持ち直接点火していたが、鍵屋が「電気点火器」を開発し、秒単位で細かな遠隔操作による着火が行われるようになった[18]。着火のタイミングや花火の色、形、種類、位置取りなどの組み合わせが、テーマに合わせた演出が可能になった[18]。花火師がコンピュータにプログラムし打上げる方法もあるが、ただし、鍵屋ではいまだに着火するタイミングをボタン式に拘り、花火師が状況を読み取り「絶妙な間」で花火を打上げている[18]。
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