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木材を大鋸を使って挽き切ること、およびそれを職業とする者 ウィキペディアから
木挽、または木挽き(こびき)は、木材を「大鋸」(おが/おおが)を使用して挽き切ること、およびそれを職業とする者[1][2]。大鋸挽・大鋸挽き(おがひき)とも呼ぶ[3][4]。15世紀末の資料には、「大鋸」を「おおのこ」と読み「大のこひき」(おおのこひき、大鋸引)と表記する場合もあった[5]。現在の製材、および製材作業者で、かつ卓越した木材の鑑定能力をもつ職能集団を指す。
奈良時代(8世紀)、国と寺社が建築物の造営・修理のための木材を確保することを目的に「杣」として山林を指定、これを切り出す杣工とともに、大木を製材する「木挽」(大鋸挽)が出現した[6][7]。
「木挽」の歴史において「大鋸」が登場するのは、14世紀 - 15世紀の室町時代に中国から導入されたときのことであり、これによって生産能率が飛躍的に上昇した[8][9]。長さが約2メートルあり、2人がかりで左右あるいは上下から縦挽きに挽いて、木材を切る[8]。「大鋸」以前ののこぎりは、木の葉形をした横挽き式のものであった[8]。
15世紀末の1494年(明応3年)に編纂された『三十二番職人歌合』の冒頭には、「いやしき身なる者」として、「石切」とともに「大のこひき」[5]、あるいは「大がひき」として紹介され、2人がかりで挽く姿が描かれている[5][10][11]。この歌合に載せられた歌は、
というもので、杣板は産地を出て広い世界に流通していくが、それを切り出す「大鋸挽」自身は山に引きこもっていないければならないことが憂鬱である、と詠まれた[10]。同職人歌合に「職人」として紹介された職能は、その後の時代にあっても賎視されたものが多々あったが、手工業者層が全国的な広がりを見せた16世紀以降の日本にあって、「大鋸挽」「木挽」は手工業者を意味する新しい意味での「職人」[12]に位置づけられた。
江戸時代初期、17世紀初頭の江戸では、江戸城造営に際して、現在の東京都中央区銀座1丁目から同8丁目までの三十間堀川と築地川との間の地区に「木挽」たちを居住させた[13][14]。同地域が「木挽町」と呼ばれるのはこのことに由来し、1951年(昭和26年)に「銀座東」と改称するまで町名として残った[13][14]。このころには「大鋸」にイノヴェーションが起き、「前挽き大鋸」が開発され、1人で挽くことができるようになった[9]。
江戸時代後期、19世紀初頭、鍬形蕙斎が『近世職人尽絵巻』に「木挽」たちの仕事姿を描き[15]、同作を参考に、1831年(天保2年)ころ、葛飾北斎が『富嶽三十六景』の「遠江山中」として、遠江国(現在の静岡県大井川以西地域)の山中における「木挽」たちの仕事姿を描いている[16]。この「木挽」たちが使用しているものが、1人で挽くことができる「前挽き大鋸」である。
明治時代以降には、機械での製材が導入され始めるが、手作業での製材作業および作業者は、引き続き「木挽」と呼ばれた[17]。
かつて「木挽町」という町名であり「木挽」たちが居住した東京都中央区銀座の旧木挽町地域では、足柄木材(銀座2丁目)、大西材木店(同3丁目)の2社が、2012年(平成24年)9月現在も材木商を営んでいる[18]。
日本の地名にみられる「木挽」「大鋸」のおもなものである。
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