大庭みな子
日本の小説家 (1930-2007) ウィキペディアから
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大庭 みな子(おおば みなこ、1930年11月11日 - 2007年5月24日)は、日本の小説家。本名・美奈子。東京市出身。
大庭 みな子 (おおば みなこ) | |
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誕生 |
1930年11月11日 日本・東京府 |
死没 | 2007年5月24日(76歳没) |
職業 | 小説家 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
教育 | 学士(文学) |
最終学歴 | 津田塾大学学芸学部英文学科卒業 |
活動期間 | 1968年 - 2007年 |
ジャンル | 小説 |
文学活動 | 内向の世代 |
代表作 |
『三匹の蟹』 (1968年) 『がらくた博物館』(1975年) 『寂兮寥兮(かたちもなく)』(1982年) 『啼く鳥の』(1986年) 『浦安うた日記』(2002年) |
主な受賞歴 |
群像新人文学賞(1968年) 芥川龍之介賞(1968年) 女流文学賞(1975年) 谷崎潤一郎賞(1982年) 野間文芸賞(1986年) 川端康成文学賞(1989年・1996年) 読売文学賞(1991年) 紫式部文学賞(2003年) |
デビュー作 | 『三匹の蟹』(1968年) |
ウィキポータル 文学 |
東京渋谷に生まれた。父の転勤に伴い、各地を転々とする。敗戦を広島で迎え、原爆の惨状が文学の原点となった。
津田塾大英語科を卒業後、結婚。夫の転勤によるアラスカ生活中、現地から投稿した『三匹の蟹』(1968年)で芥川賞受賞。以後、時空を超えて混沌とした人間関係と性の様態に迫った『寂兮寥兮』(1982年)などを発表。『啼く鳥の』(1985年)前後から人間・自然・他の生物一体の宇宙観を展開した。
東京渋谷生れ[1][2]。海軍軍医の父の転任で、海軍の要地に移り住む[1]。
広島県呉市(呉市二河小学校)、広島県江田島(従道小学校(海軍兵学校内))、愛知県豊川市(豊橋高等女学校(現愛知県立豊橋東高校))、広島県賀茂郡西条町(現東広島市)などで育つ[1][2]。賀茂高等女学校(現広島県立賀茂高校)在籍時の1945年8月末から原爆投下後の広島市に救援隊として入り、その惨状に強い衝撃を受ける。この時見た被爆地の悲惨な光景が文学的原点となった[2]。終戦後、岩国高等女学校(現山口県立岩国高校)、新潟高等女学校(現新潟県立新潟中央高校)を経て津田塾大学学芸学部英文学科卒業[1]。
1959年10月、夫の仕事の都合により、アラスカに移住する[3]。1968年、アメリカの市民生活を描いたデビュー作『三匹の蟹』で、群像新人文学賞・芥川賞を受賞した[3]。1970年帰国[3]。
1975年『がらくた博物館』で女流文学賞、1982年『寂兮寥兮(かたちもなく)』で谷崎潤一郎賞[3]、1986年『啼く鳥の』で野間文芸賞[3]、1991年評伝『津田梅子』で読売文学賞[3]、2003年『浦安うた日記』で紫式部文学賞受賞。
小説からエッセイ、評論、詩集など作品多数あり、ドナルド・キーンなどの著作や児童文学の翻訳もある。講談社より『大庭みな子全集』(全10巻)が刊行されている。1987年から河野多惠子と共に芥川賞初の女性選考委員となり、1997年まで務めた。1991年、日本芸術院会員、その他日本ペンクラブ副会長、女流文学者会代表などを務めた。フェミニズムに関心が高く、対談集などで精力的に発言していた。
1996年に脳梗塞で倒れ、左半身不随で車いす生活になった[4]。それ以降は夫の協力を得て、口頭筆記で著述を行っていた[5]。2007年5月24日午前9時14分、腎不全のため入院先で没した。76歳没。夫の利雄は、この介護を題材とした手記「終わりの蜜月」を発表している。
なお没後、絶筆となった短編やエッセイを含む『風紋』と、倒れる直前まで執筆していた未完の長編『七里湖』が相次いで刊行された。
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