増嶋竜也

日本のサッカー選手 ウィキペディアから

増嶋竜也

増嶋 竜也(ますしま たつや、1985年4月22日 - )は、千葉県千葉市出身の元プロサッカー選手。サッカー指導者。YouTuber。ポジションはディフェンダー(DF)。妻は潮田玲子。2児の父。

概要 増嶋 竜也, 名前 ...
増嶋 竜也
Thumb
名前
愛称 まっすう、マス[1][2]
カタカナ マスシマ タツヤ
ラテン文字 MASUSHIMA Tatsuya
基本情報
国籍 日本
生年月日 (1985-04-22) 1985年4月22日(39歳)
出身地 千葉県千葉市
身長 179cm
体重 76kg
選手情報
ポジション DF (CB / SB)
利き足 右足[3][2]
ユース
2001-2003 市立船橋高校
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
2004-2008 FC東京 25 (1)
2007 ヴァンフォーレ甲府 (loan) 25 (4)
2008 京都サンガF.C. (loan) 32 (0)
2009-2010 京都サンガF.C. 46 (0)
2011-2019 柏レイソル 115 (6)
2017 ベガルタ仙台 (loan) 22 (1)
2018-2019 ジェフユナイテッド千葉 (loan) 54 (5)
2020 ジェフユナイテッド千葉 18 (2)
通算 337 (19)
代表歴
2002-2005  日本 U-17/18/19/20 4 (0)
2006  日本 U-21 1 (0)
監督歴
2023- SHIBUYA CITY FC
1. 国内リーグ戦に限る。
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来歴

要約
視点

小学2年生の時に[2]兄に誘われてサッカーを始める[4]。 小学6年時にはジェフユナイテッド市原ジュニアユースのセレクションを受けるものの、1次テストで不合格となり地元の生浜中学に入学する[5]。 チームでは1回戦負けが多く、目立った成績を収められなかったが、個人では千葉市トレセン、千葉県選抜や関東選抜に選出経験があった[5]1999年度の全国高校選手権を制した市立船橋高校に憧れ[6]、中学3年の秋に受験した市立船橋のセレクションに不合格となったため、一般入試で2001年に同校へ進学[5]。 1年生の7月に監督の布啓一郎に身体能力の高さを見込まれ、FWからDFにコンバート[7]、右サイドバックのレギュラーとして同年のインターハイで優勝に貢献[5]。1年生で唯一優秀選手に選出された[4]。その後1学年上の大久保裕樹と入れ替わる形でセンターバックとして[5]2年時には全国高校選手権、3年時には高円宮杯で優勝し[8]、高校生年代の3大タイトルを獲得した。高校No.1DFとして[9][6] 多くのJリーグクラブが獲得に名乗りを上げる中[4][1]2003年10月にFC東京への加入内定が発表された[8]。また、この年には主将としてチームを牽引し[1][6]、同期の石井秀典カレン・ロバート佐藤優也鈴木修人高橋昌大らと共に冬の天皇杯で3回戦に進出[10]。J1で優勝したばかりの横浜F・マリノスを相手に互角以上の闘いを演じたが[11]、増嶋は後半終了間際に2度目の警告を受けて退場。その後PK戦までもつれチームは敗退。なお、この試合の退場による出場停止処分は、2週間後の全国高校選手権の初戦に課された[11]

2004年よりFC東京に加入[8]。第1節の新潟戦で早速公式戦デビューを果たした[12]同年開催のAFCユース選手権ではU-19日本代表の主将を務め、3バックの中央に入り守備を統率[13]翌年のワールドユース出場権を確保したものの、増嶋にとってはPK失敗やオウンゴールなど苦い経験を味わった[14]大熊清U-20代表監督からの信頼は厚く[1][6]、ワールドユースでも代表主将を務め、全試合に出場した。2006年、J1第6節横浜FM戦でFC東京での初得点を記録。後半ロスタイムに今野泰幸のヘディングからの落としをボレーで蹴りこんだ[15]。同年8月より2008年のオリンピックを目指す日本代表が新たに発足し、増嶋も名を連ねたが[16]、FC東京では茂庭照幸ジャーンのCBコンビに阻まれ[17][14]、起用は彼らの負傷時などに限定され[18]、レギュラー奪取には至らなかった。

2007年、日本代表から遠ざかりつつあった状況に危機感を抱き[1]、出場機会を求め[19]ヴァンフォーレ甲府へ1年間の期限付き移籍[20][3]。中心選手との一角となり[17]空中戦の強さを見せた[1]

2008年京都サンガF.C.へと期限付き移籍[21][22][23]。レギュラーを確保したが、代表復帰は果たせなかった。京都では右サイドバック(SB)でも起用され、新たな武器としてロングスローを放ち[1]好機を演出した[24]2009年からは京都へ完全移籍[25][26]

2011年、地元千葉県でのプレーを望み[27]柏レイソルへ完全移籍[28][29]。開幕当初は右SBとして出場するも、その後はSB酒井宏樹の台頭やCB朴東赫の離脱により[30]、CBとして出場機会が増えていった。最終的にリーグ戦では25試合に出場し、チームのJ1初優勝に貢献した。2012年も前年に続いてCBのレギュラーを確保し、キャプテンの大谷秀和からキャプテンマークを託されることもあった[31]2013年鈴木大輔の加入や橋本和の負傷もあり、序盤は左SBとして出場することが多かった。夏場以降、鈴木の台頭や自身の負傷離脱[32] もあったが、最終的にリーグ戦25試合に出場。最終ラインの何処に入っても遜色のないプレーでチームを支えた[2]2014年は、シーズン半ばまで出場機会が得られなかったが、中盤戦以降はケガ人が出たチーム状況もあって先発出場の機会を増やし、公式戦20試合に出場。同年12月に両足関節遊離体除去手術に臨んだ[33]。2015年開幕に復帰を間に合わせたものの、1st第2節仙台戦で前十字靭帯損傷し長期離脱を強いられた[34]。2016年開幕節で先発復帰。

2016年12月15日ベガルタ仙台へ期限付き移籍することが発表された[35][36]。移籍期間は2017年2月1日から2018年1月31日までの1年間。なお、2017シーズンにおける柏レイソルとの対戦には出場できない。

2017年12月27日ジェフユナイテッド市原・千葉へ期限付き移籍することが発表された[37]2020年からは、完全移籍にて加入[38]

2020年12月10日に契約満了により千葉を退団する事が発表され、現役を続けるとコメントしていたが[39]、同月20日に行われたシーズン最終節の日に引退を発表した[40]

2021年元旦、YouTuberへの転身を妻の潮田玲子が自身のInstagramで報告。家族4人の写真とともに「増嶋家ちゃんねる。」のチャンネル画像を投稿した[41]

2021年1月、市立船橋高校サッカー部のコーチに就任した[42]

2023年1月、SHIBUYA CITY FCの監督に就任した[43]

人物・エピソード

所属クラブ

ユース経歴
プロ経歴

個人成績

さらに見る 国内大会個人成績, 年度 ...
国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
2003市立船橋高5---3232
2004FC東京J1702010100
200540000040
20061413022193
2007甲府152547100325
2008京都243206020400
20092105010270
20102506000310
201152501031291
20123044051395
20132513020301
20141613010201
201520000020
20161703220222
2017仙台502215000271
2018千葉5J2233-10243
2019312-00312
2020182--182
通算日本J1 2651248319433219
日本J2 727-10737
日本 --3232
総通算 3371948323640828
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その他の公式戦
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国際大会個人成績 FIFA
年度クラブ背番号出場得点出場得点
AFCAFC CLCWC
20115-40
201270-
201392-
201520-
通算AFC 18240
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その他の国際公式戦
出場歴

代表・選抜歴

タイトル

クラブ

船橋市立船橋高等学校
FC東京
柏レイソル

代表・選抜

個人

  • 全国高校総体(インターハイ) 優秀選手:2001[8], 2003[8]
  • 全国高校サッカー選手権 優秀選手:2002[8]

指導歴

脚注

関連項目

外部リンク

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