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集合住宅などの建物が集積している地区 ウィキペディアから
団地(だんち)は、生活または産業などに必要とされる各種インフラおよび物流の効率化を図るために、住宅もしくは目的・用途が近似する産業などを集中させた一団の区画もしくは地域、またはそこに立地している建物および建造物を指す。
「団地」とは本来は工業団地や流通団地のように「単一機能が集積する土地」をいう[1]。一般的には中高層の賃貸アパートを指すことが多いが、地理学上は住宅団地には戸建ての建売住宅や住宅用の土地分譲によって一定の戸数が集合しているものも含めるべきと考えられている[1]。
住宅団地は単に家屋が密集している場所を指すのではなく、生活関連の諸施設が完備され管理されているものをいう[2]。
団地の土地性には、地域構造、地形・気象、自然および歴史的要素などがある[3]。
また団地の構成要素にはインフラ造成、グルーピング・オープンスペース、住棟配置デザイン、景観・シンボルなどがある[3]。
第一次世界大戦の勃発後、イギリスでは戦争長期化に伴って住宅問題が発生し、500万の塹壕の兵士と300万の軍需労働者の貢献に報いる観点から良質の住宅供給が戦後再建の柱と考えられるようになった[4]。住宅検討委員会の審議の結果、1918年の『チューダー・ウォルターズ報告』では1エーカー当たり12戸の低密度の間口の広い庭付き住宅の建設などが提言された[4]。
第一次世界大戦を契機とする公的介入政策の結果、『チューダー・ウォルターズ報告』に沿った公共賃貸住宅の大量供給が実現し、田園郊外型の住宅団地が採用されたことで過密の中心市街地から都市周縁への住民の大規模な分散が生じた[4]。ロンドン州議会が大戦間期に供給した82,000戸のうち、61,000戸は主として15の比較的小規模な郊外型住宅団地のcottageestatesに建設された[4]。その例外がロンドン州の郊外に開発されたベコントリー団地であり、戸数25,039戸、収容人口112,570人で当時としては世界最大の住宅団地であった[4]。一方で住宅供給には限界もあり、高水準の住宅だったため相対的に高家賃となり、入居者の階層が限定され、さらに1930年代にスラムクリアランスが本格化したことで低所得層の中には生活費の高騰により貧困に陥ったり旧市街に戻る者もいた[4]。
第二次世界大戦後、1956年の法改正でイギリスの公営住宅政策は、一般的ニーズへの対応から大都市のスラムクリアランス事業に重点を移し、住宅の形態もハウス系の公営住宅は大幅に減少し、中高層住棟が大幅に増加した[5]。しかし、1950年代後半以降に建設された公営住宅、特にスラムクリアランス事業と大規模公営住宅団地の建設に対して、無神経なプランニング、プアなデザイン、非人間的な立ち退きなど住民等への配慮を欠くとの指摘がなされた[5]。
1980年代初頭になると第二次世界大戦後の復興期に建設された住宅の老朽化が進み、さらに団地の社会的環境の荒廃が重要な政策課題として浮上した[5]。イギリス政府は1980年代の初めから公営住宅団地の再生事業を開始し、コミュニティ参加と自立自助、公営住宅の民営化を基本としたが、これらの物的環境の改善対策と同時に、雇用対策、職業訓練、青少年教育、犯罪防止など多面的な対策を実施した[5]。
1985年には地理学者アリス・コールマンが研究レポート『ユートピアへの審判-計画住宅地のビジョンと現実』を発表すると、首相のマーガレット・サッチャーの支持を受け、コールマンの指導の下でデザイン改善実験プロジェクトDICE(Design Improvement Controlled Experiment)が行われた[5]。
フィンランドでは巨大な規模の団地はみられず、そのため団地の更新も全面的な建て替えではなく部分的改修によることが多い[6]。ヘルシンキ市では1990年代末に1960年代に建設された団地の更新が必要となり、都市計画局を中心に郊外住宅団地の調査や目録作成、報告書の作成が行われている[6]。
スウェーデンでは多くのヨーロッパ諸国とは異なり、第二次世界大戦での直接的な被害を受けなかったが、1960年代から70年代初頭にかけての社会民主労働党政権下で10年間で100万戸を建設する「ミリオン・ホームズ・プロジェクト」が実施された[6]。ミリオン・ホームズ・プロジェクトでは短期間に大量の住宅を建設するため、あらゆる合理化が行われ、郊外の住宅団地には巨大長大高層住棟が出現した[6]。しかし、エリアによっては建設直後から大量の空き家が発生し、1990年代にはユーゴスラビアやボスニア・ヘルツェゴビナの紛争による難民を受け入れたが、言語や雇用などの面で社会的に疎外感のある状況に置かれ、物理的にも交通な不便な地が多かったため陸の孤島のような状況となり課題となっている[6]。
オランダではアムステルダムの南東約7.5kmに、総戸数14,000戸、計画人口6万人の大規模高層団地ベルマミーア団地が建設された[7]。しかし、ベルマミーア団地では治安が悪化して問題団地と呼ばれるようになったため、高層住宅の撤去や売却(民間の低層住宅への建て替え)、住民の社会的・経済的諸条件の改善の施策、団地の管理の強化など再生事業が行われた[7]。
オランダの内陸都市アームスフォートでは、地域で消費する電力量の50%を太陽光発電でまかなう画期的なソーラーシステム団地が誕生している[8]。
1960年代のソ連政府はフルシチョフカ(ロシア語: хрущёвка; IPA: [xrʊˈɕːɵfkə])という集合住宅をソ連邦内に数多く建設した。低コストで、パネル工法あるいはレンガで作られており、3階から5階建てである。建設にはその名前にある通り、ニキータ・フルシチョフが監督している。もともとこの建物は、成熟した共産主義によって住宅不足が軽減されるまでの、一時的な住宅であると考えられていた。フルシチョフは20年以内に社会主義から共産主義に移行できると予測した。その後、レオニード・ブレジネフは各家族に「1人1部屋の確保と1部屋分の追加」を約束したが、今日も多くの人がフルシチョフカに住み続けている。
住宅団地の定義は行政の法文上の規定を欠いているため、研究者による定義も面積、戸数、人口などの基準に違い少しずつ違いがある[1]。なお、建物の区分所有等に関する法律の第二章に「団地」の規定があり、65条に「一団地内に数棟の建物があつて、その団地内の土地又は附属施設(これらに関する権利を含む。)がそれらの建物の所有者(専有部分のある建物にあつては、区分所有者)の共有に属する場合」の規定があるが、「団地」そのものを直接定義しているわけではない。国土交通省の住宅団地数の推計では、「1.同一敷地内に計画的に建てられている二棟以上の共同住宅群で、2.分譲敷地を含むおおむね50戸以上のもののうち、3.当該敷地が区分所有者等により共有されていると推定されるもの」と定義されている[9]。
建築基準法では、一敷地一建築物が原則であり、建築基準法第86条第1項の一団地建築物設計制度と同法第86条第2項の連担建築物設計制度は、特例的に複数建築物を同一敷地内にあるものとみなして建築規制を適用する制度となっている。
団地設計の定義については、渡邉高章「日本住宅公団黎明期における団地設計活動に関する研究」で説明されており、「団地設計とは土地利用計画、道路設計から住棟の配置計画までいたる一連の設計活動を指すものである。」とされている。それに対し、配置計画については「住棟を敷地内にプランニングしていく作業を指し、必ずしも道路設計と一体化していないことが多い。」としている。
団地や「ダイニングキッチン」の概念を生み出した日本住宅公団初代設計課長の本城和彦から聞き取りを行った建築史家の藤森照信によると[10]、「団地」とは「集団住宅地」の略であり、これを住宅営団の内部で略して「団地」と言っていたらしい。「集団住宅地」の語の初出は1939年に日本建築学会主催で開かれたコンペ「労務者向集団住宅地計画」であり、これが戦後の1955年、日本住宅公団の「公団住宅」として実を結んだ。「団地」の語の初出は1958年に刊行された住宅公団のパンフレットである。団地の設計に当たっては西山卯三の「食寝分離論」が取り入れられた。
1955年に日本住宅公団によって建設が始まった公団住宅は、水洗トイレ、風呂、ダイニングキッチン、ベランダなどを取り入れ、近代的なものとして憧れの住宅だった[11]。
1960〜1970年代までに建設された団地は5階建てまでになっているのが多く、エレベーターが設置されていないものが多い(集合住宅では、5階までであればエレベーターの設置が義務づけられておらず、6階以上でエレベーターを設置する義務がある。設置されていてもカゴのサイズがあまり大きくないこともあり、引越しなどで家具を搬出入する際の弊害になることがある)。
また後述の建て替えにも関係するが、住居者の高齢化などにより、階段の昇り・降りに対する負担が大きくなっていることも踏まえ、既存の建物に後付けする形でエレベーターやスロープ・手すりなどを設置する工事を進めている。具体的には3-5階の居住者の高齢者世帯率の高い住居から優先して施工するが、建物の老朽化や、耐震補強などの工事を行う場合は、その工事の進捗状況に応じて実施するが、建物の構造上の問題や物理的な問題などで設置できない場合があったり、維持費の都合上家賃や共益費などの値上げを含めた負担増などの問題もある[12]。
高度経済成長期に数多く建てられた団地は、2000年代頃から老朽化とともに住民が高齢化し、バリアフリーや引越し時における負担の観点から大きな課題を抱えるようになった。また治安も懸念されるようになった。そのため建て替えが相次いで行われるようになった。容積率に余裕を持って建てたものが多く、住宅需要の高い地域であれば高層化して戸数を増やし、余った敷地を売却して分譲住宅を建設し資金を賄うなどの手法で団地建替えが増加した。
建て替え後は一新したイメージを出すため「団地」という名称を使わないことが主流となっている。
戸建の団地には以下のようなものがある。
名称をつけるのに法的な規程はなく、団地という言葉自体も法的な規程はないが、建築基準法といった法規の建築用途区分上、日本では宅地であり、共同住宅タイプの団地建物は全てアパートメント、となる。規程が無いことで土地形態や場所、構造、規模仕様においての名称区別などもないので、建物の名称にはアパート、マンション、ハイツ、コーポといった団地にゆかりのある名称を付ける場合がみうけられ、近年では都市再生機構の団地立替時に、新たな名称として付けられる場合がある。 日本でマンションとは主に鉄骨や鉄筋コンクリート、鉄骨鉄筋コンクリート造の中高層建物の集合住宅のうちで、通常は民間会社から販売され分譲形式になっているもの。 集合住宅・住宅団地などにつける呼び名として、以下のものがある。
コハウジング(cohousing)は、デンマークを中心に発展した居住形態であるボフェレスカーバの英訳である[13]。1960年代に考案されたもので、台所・浴室・トイレを完備する個々の住戸群と、食事や娯楽など日常生活の一部を共同化する共用空間とを組み合わせた集住形態をいう[13]。共住方式と呼ぶこともある。
コウハウジングは1980年代後半にはアメリカ合衆国にも導入され、1991年に第1号となるコウハウジング“MuirCommons”がカリフォルニア州デービスに完成した[13]。
コウハウジングはスウェーデンのコレクティブハウジングと同義とされ、日本ではコレクティブハウジングの名前が一般的に普及している[13]。また、各住宅の敷地境界に設える塀としての垣根を取り払う、若しくは生垣の植栽を低いものにする、等々の物理的な開放性を高くし、隣接する互いの敷地を視覚的に一体化した形式として垣根開放団地とも呼ばれている。三菱地所による神奈川県逗子市の高台に位置する逗子披露山庭園住宅(披露山公園)が日本国内の代表例。一戸当たりの平均的な敷地面積は300坪だが前述の物理的な開放性により数倍の広さに見えるのが特徴。
工業団地も単に何の関連もない工業が密集している場所ではなく、生産の効率的結合、輸送手段の整備、公害防止の共同施設といった集積のメリットが期待できる形態でまとまっている場所をいう[2]。
工業団地では、工場から発生する音や振動等を周辺地域に及ぼしたり周辺環境を乱さないよう、住環境と離れた位置に集中して建設されることが多い。加えて工業団地では物流の観点から、原材料や製品を効率的に運般可能とするために高速道路や主要幹線道路に近い立地条件に開発される場合が多い。
一般に、大規模なものが大都市の近郊や高速道路・鉄道路線などに設けられることが多い。また、大都市中心部などに置かれた大規模工場を住宅地に変更する際にもこの手法が採り入れられる事がある。建設の際には目的に合致した都市インフラ設備の整備も合わせて行われる。
農業団地とは生産段階や流通段階で農業の組織化が図られ、その機能が個人経営の範囲を超えて効率的に実働できる単位にまでまとまった場所をいう[2]。
農業団地では、農産物を集荷し加工運般するための工場等が必要となる場合もある。
日本では、特に生産段階で個別経営の範囲を超えて作目別に機械や施設が効率的に実働できるようまとめた団地を高能率生産団地と、流通段階も含めて広域にわたって生産から流通、加工までの体制を整備する広域営農団地がある[2]。
農業団地の一例を示す。果樹団地、営農団地などとも呼ばれる。観光農園施設、観光果樹園として運営されるものもある。
2010年1月にベトナム政府は「2020年までの高度技術を導入する農業を開発するプロジェクトの承認」を決定し、2021年12月までに国内に12か所のハイテク農業団地を設立し、バイオテクノロジー、空中栽培、水耕栽培、温室・防虫ネットハウス栽培等に関するノウハウと技術を採用して農業を行っている[14]。
パーク(park)は、古フランス語の「囲い」を意味する parc を語源として、特定の目的をもった地域や場所を表す名称で以下に示す団地で用いられる。
また、スカイパーク(sky park)は、諸外国では飛行場付きの住宅団地の意味だが、日本ではそれとは異なり、以下の使用例がある。
団地の登場により団地関連の流行語が多数登場した[15]。
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当初の団地族には若い核家族が多かった[24]。団地族の夫婦は農村の夫婦に比べ夫婦間の価値観の一致も相違も大きいものとなっていた[25]。
団地文化では近所付き合いや子供の教育を含む家庭生活全てを母親が取り仕切って行っており[26]、旧来の厳父慈母とは逆に母親の方が責任感が強く父親の方が無責任であり[26]、団地っ子もそれを反映してか非団地の子供に比べ男子がより内向的、女子がより外向的な性格の傾向にあったとされる[27]。
しかしながら団地族はプライバシーを重視しており、近所付き合いも下町と異なり深いものでは無く[28]、良く都心に出掛けるため地元へ関心も薄く、地方政治にも無関心であり、地縁よりも学縁や趣味の縁、社縁を重視していたとされる[29][30]。
出費では雑費を抑えて家具や家電、生活用品への支出が多くなっていた[31][32]が、これは団地族が生活を楽しむ現れであったとされる[33]。
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