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『喜劇急行列車』(きげききゅうこうれっしゃ)は、1967年の日本映画。『列車シリーズ』の第1作[1][2][3][4]。
渥美清演じる人情味あふれる車掌[5][6]を軸に、特別急行列車の乗客たちが起こす騒動を描いた喜劇映画。日本国有鉄道(国鉄)の製作協力[4]により、駅や走行中の列車でのロケーション撮影が多く取り入れられている。
国鉄東京車掌区のベテラン専務車掌・青木吾一は、ある日の東京発長崎行き寝台特急「さくら」での乗務中に、想いこがれていた毬子と再会する。毬子が車掌室に依頼してきた電報の文面から、吾一は毬子が夫と決別することを知る。深夜、ホステス5人組の下着や宝石が盗まれる窃盗事件が発生するも、毬子が偶然事件を目撃していたため、犯人は門司駅で乗り込んできた鉄道公安職員に逮捕される。
列車が到着した翌朝、非番となった吾一は、偶然平和公園で毬子と再会。吾一は「長崎物語」を口ずさむ上機嫌で、長崎市内を案内する。やがて吾一は恋心の再燃を押さえつつ、毬子に東京へ帰るよう説得する。毬子は「死んだ父と一緒にいるようで楽しかった」と告げ、吾一は男として見られていないことを悟り落胆する。
東京の自宅に帰った吾一は、仕事に理解のない妻・きぬ子に毬子からの手紙を見られ、浮気を疑われる。疑念の拭えないきぬ子は、吾一が乗務する西鹿児島行きの特急「富士」を東海道新幹線でこっそり追いかけ、追いついた熱海駅で乗り込む。きぬ子の出現に吾一は驚く。心臓手術を控える乗客の少年を励ます吾一の姿を見たきぬ子は、疑念を和らげていく。
そんな中、佐伯 - 延岡間で乗客の妊婦が産気づく。助産師であるきぬ子の適切な処置や、乗務員たちの素早い協力行動により、車内出産は無事に成功する。
西鹿児島駅に着いた吾一・きぬ子夫妻を、毬子が待っていた。毬子は夫との復縁を報告し、夫をふたりに紹介する。こうして夫妻のわだかまりは解けたのだった。
オープニングクレジット順
1967年6月3日に国内公開され、併映は『あゝ同期の桜』。同作の人気に負うところも大きかったとされるが、本作は大ヒットした[7][8]。全国の国鉄職員とその家族200~300万人に割引前売券を売りさばいた[9]。国鉄関係者は映画の出来に「感激」したとされ、のちに国鉄から大川に感謝状が贈られた[10]。
それまでの渥美は茶の間(=テレビ)の人気を買われ、1963年に宝塚映画と優先契約を結び[8]、しばしば映画に出演したが、いずれも期待を裏切り不入りが続き、『父子草』と『風来忍法帖 八方破れ』は撮影済みながら、当時お蔵入りしており[8]、当時の映画関係者の間では「渥美の顔は所詮は茶の間相手(=テレビ向きであっても映画には不向きの意)」というのが常識化していた[8]が、本作のヒットを受け、渥美自身も「(自分は)やっとゼニのとれる役者になった」と喜んだ[8]。『父子草』『風来忍法帖 八方破れ』は、本作のヒットを受け劇場公開されている[8]。
本作および、のちのシリーズの企画(後述)は、大川博東映社長で、大川の唯一の企画映画とされる[11][7]。渥美清は「大川社長に『ボクは昔、鉄道員になりたかったんだが、汽車ポッポが好きでね。その夢が実現しなくて活動屋になっちゃったけど、君がボクの代わりに車掌さんをやってくれないか』と言われて握手して生まれたのが『列車シリーズ』」と述べている[12][注 1]。大川はそれまで「映画はズブの素人」と評された人物だった[13]。
プロデューサーの岡田茂が「東映喜劇路線」を敷こうと、東宝(宝塚映画)から渥美清を主演として引き抜き、瀬川昌治を監督に起用した[4][5][14]。
1967年4月4日、東映本社会議室で製作発表会見があり、大川博東映社長、坪井与東映専務、瀬川昌治監督、渥美清、佐久間良子らが出席[11]。大川は「東映もそろそろ(ヤクザものから)脱皮する必要がある。人生には笑いが必要で、東映としてもここで喜劇路線を確立したいと思う。トコトンまで押して行きたい」などと話した[11]。瀬川監督は「渥美ほどユニホームの似合う俳優はいない。彼は平均日本人のキャラクターの持ち主で、その怒りや悲しみがストレートにファンに浸み込んでいく。この作品ではこのような彼の魅力を100パーセント引き出してみたい」などと抱負を述べた[11]。渥美は「正直いって主役に選ばれたことで面食らっている。列車のことは何も知らないが一生懸命やりたい」などと話した[11]。
列車内のシーンが多いことから車内セットが必要になったが、製作費用が掛かるために国鉄に協力を仰ぎ、一車両借りようとした[15]が、ちょうど春の移動最盛期で「東海道本線では遊んでいる車両はありません」と、ニベもなく断られた[15]。このためクランクイン予定が1か月遅れた[15]。その後なんとか協力が得られて撮影期間1か月の間、東京 - 長崎間の寝台列車を特別に用意して貰い、停止したまま設備が動作するように電源車を連結して撮影した[16]。
監督の瀬川は「大川社長が、以前に国鉄におられましたから。その頃の国鉄総裁(正しくは総裁ではなく副総裁・磯崎叡)は、大川さんのかつての部下なんですね。だから国鉄がとても協力してくれて、長崎行の寝台特急に撮影用の車両と電源車を連結してくれたりして、国鉄のPR映画にもなっていたんです」と話している[4]。
本作の好評を受け、シリーズ化が決定し、以降『喜劇団体列車』(1967年11月公開)『喜劇初詣列車』(1968年1月公開)の2作品が製作され、本作『喜劇急行列車』と合わせた3作品を「東映列車シリーズ」「列車シリーズ」と呼ぶことが多い[1][2][4]。二作目を製作中と見られる1967年10月の文献に「東映国鉄路線」と書かれた資料もある[17]。他に「喜劇・列車シリーズ」と書かれた資料や[18]、同じく瀬川昌治が手掛けた「旅行シリーズ」の一部としている資料[19]もある。
当時の東映は毎日ヤクザ映画を劇場に掛けていた時期であった[9][7]うえ、東映内部で作品の評価が低かったものの[7]、社長の大川はヤクザ映画を嫌っており[7]「プログラムに変化を入れなければならない」と、シリーズ化を決定した[7][8]。当時の東映の関係者は「国鉄は支社が28あるから(当時)28本作れる」と語った[17]。
第二作のタイトルには、団体動員を狙う『喜劇団体列車』と命名[9]。その際鉄道弘済会とタイアップして、駅構内の売店で、当時の一般劇場入場料400円の3割引き価格・280円で前売券を販売し[20]、好調な売れ行きとなった。
1968年、3作目の『喜劇初詣列車』公開の後、大川社長の息子・大川毅東映専務と岡田茂たち「活動屋重役」が揉め、東映のお家騒動が起きた[21]。この煽りで、岡田は1968年5月17日付けで東映の映画製作の最高責任者・企画製作本部長に就任し[22]、続いて同年8月31日付けで映画の製作・配給・興行までを完全に統轄する映画本部長に就任[21][22]。大川社長から映画部門に関しては全権委任され[21][22]、一つの映画会社の社長の立場に匹敵する大きな権限を持たされた[21][22]。本部長就任にあたり、「エロとヤクザの“不良性感度”映画を一層強化する」と宣言した[21]。
『喜劇初詣列車』に続くシリーズ4作目として『喜劇新婚旅行』が企画として挙がっていた[4][19]。しかし本シリーズに渥美清とコンビを組んで3作品に出演した佐久間良子が、上記の東映の「不良性感度」路線を毛嫌いし[23]、エロでもグロでもない作品にしか出ない方針をとったため、出演依頼に応じなかった[23]。その影響で、東映での出演が減った[23]。このため佐久間は他社(映画会社)出演を認めて欲しいと強く訴えたが[23]、まだ五社協定の強い時代で思うようにいかなかったと述懐している[23]。自身が映画化を希望した『石狩平野』も製作延期になった佐久間はついに「ハラを立て[24][25]」、「順法闘争」に出て、それに応じた渥美清も4作目の出演を拒否。こうして「列車シリーズ」は終了した[4][24]。
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