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坪井 与(與)(つぼい あたえ、1909年(明治42年)3月23日 - 1992年(平成4年)3月31日)は、日本の映画プロデューサー。満映娯民映画所長、東映専務取締役、東映化学工業社長。
長崎県に生まれる。1926年福岡県中学修猷館[1]、1931年旧制福岡高等学校文科丙類[2]を経て、1934年、東京帝国大学文学部仏文学科を卒業[3]。福岡高校では、一年下級の檀一雄と親友となり、その交友は檀が亡くなるまで続いている。
東大卒業後、満洲日日新聞に勤めた後に、満洲映画協会(満映)に入社。満映の第一回映画作品である『壮志燭天』の原作・監督を務めている。その後、娯民映画所長となり、満映理事長甘粕正彦の片腕として、李香蘭などを起用した数多くの映画の製作を手掛けている。なお、坪井は自ら甘粕派を自認しており、甘粕の葬儀の際には先頭に立って棺を引いた人物でもある。
戦後、東横映画京都撮影所企画部長となり、東横映画が東映となると、東映東京撮影所長となる。この頃、親友檀一雄の異父弟である、高岩震、高岩淡、高岩仁の3人を東映に導いており、高岩淡は後に東映の社長・会長となっている。その後、東映において、1954年、企画製作本部長、1958年、取締役、1962年、常務取締役、1964年、専務取締役を歴任。傍ら、1961年に東映化学工業の取締役となり、1974年に同社の社長に就任する。
1984年、坪井は満映設立の背景から組織の変遷、年ごとのすべての作品の関係者と粗筋を記した『満洲映画協会の回想』を著したが、これが系統性ある初めての満映史資料といわれている。
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