和田峠 (東京都・神奈川県)
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和田峠(わだとうげ)は、東京都八王子市(東側)と神奈川県相模原市緑区(西側)の間にある神奈川県道・山梨県道521号佐野川上野原線・東京都道521号上野原八王子線(陣馬街道)の峠。標高690メートル(690 m)。全面舗装である。
元来「和田峠」は相模からの呼び名であり、八王子からの元々の呼び名は案下峠(あんげとうげ)であったという記述もあるが[1]、2023年現在では「和田峠」の呼称のみが残っている。なお陣馬街道は佐野川往還、案下街道とも呼ばれ、八王子市と山梨県旧上野原町を結んでいた。
概要
陣馬街道(甲州裏街道)の峠であり、陣馬山へ向かう登山口(登り30分、下り20分[2])になっている。売店、トイレある。
- コース1 陣馬街道を和田峠まで進むこともできる。
- 陣馬街道は全面舗装されているが、車の往来は少ない状況にある。しかし、峠周辺は道幅は狭いところが多く、普通自動車でもすれ違いができない部分が多くあり、行くも戻るもできない状態となることがある。雨量によっては峠の頂上で通行止になる場合もあり、規定雨量を超えた場合は、麓の電光掲示板によって「通行止」を知らせる場合がある。勾配は12%〜13%あり、ヘアピンカーブが続くところもある。このため、トラックやトレーラーが事故を起こして通行止めになる場合もある。
- コース2 陣馬街道と醍醐街道の三叉路「落合橋」停留所下車し、醍醐林道経由で和田峠まで進むこともできる。
- 稜線に沿う醍醐林道は舗装されておらず、ガードレールもない。
歴史
- 1580年(天正10年)から15年かけて北条氏は、奥高尾山稜に通じる相模・武蔵・甲斐を結ぶ脇往還、今でいう関東ふれあいの道富士見の道である。そこからの武田氏侵入に備えて、八王子城を築城した。しかし秀吉による強い指示を受けた前田利家と上杉景勝率いる北国勢は、山頂部分を最短距離で案下(八王子市上恩方町)にて火を放ち間道沿いに搦め手から攻められて1日で落城した[3][4]。
- 1970年 - 60台が参加して行われたナイトラリー中の乗用車が、和田峠の林道から川に転落して3人が重傷を負う事故が発生。無許可でラリーが行われていたことで問題視された。当時の林道は幅員3 m程度の砂利道であり[5]、しばしばラリーのコースに組み込まれていた。
画像
- 和田峠(八王子方から)
- 和田峠(藤野方から)
- 和田林道完成記念碑
- 和田峠
チャールズ・ワーグマン作(1876年)
アクセス
サイクリングコース
自転車競技者が四天坂と呼ぶ坂は、奥多摩方面に多い。距離3.5キロメートル(3.5 km)、平均斜度10%、最大斜度18%、獲得標高364m、最大標高691mの和田峠[11]は、風張峠に並び、これに含まれる。都心から近いこともあって登山者も多いので、自動車も自転車も十分に注意を払う必要がある。なお、和田峠にはサイクルラックの設置をされてないので、盗難には注意を払う必要がある。
登山ルート
隣接する山
周辺の山など
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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