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日本統治時代の台湾・台北市にあった神社 ウィキペディアから
台北稲荷神社(たいほくいなりじんじゃ)は、日本統治時代の台湾台北州台北市西門町にあった稲荷神社である。東京羽田の穴守稲荷神社の分社で、旧社格は郷社、祭神は豊受姫命。
稲荷神社の為に、倉稲魂命が祭神であると誤認されている場合[1][2]があるが、祭神が豊受姫命である穴守稲荷神社[3]から勧請した経緯や当時の新聞記事[4]などからも誤りである。
なお、天照大御神・明治天皇・乃木希典を増祀し、社名も台北神社に改めて、台北市の総氏神とする計画があり、実際に社掌や氏子総代の連名で、1926年(大正15年)12月20日に台北市を経て台湾総督に申請が出された[4]。その後、改称や増祀された資料がなく[5]、台湾神社の存在などから実現しなかったと見られる。ただ、例祭をはじめとした各種祭典や行事には、台北庁などの官公庁関係者が出席し、台北市の火事除祈祷も台北稲荷で行われるなどしていた。
台北稲荷神社 御祭神増祀・社名変更願出
- 西門市場内の台北稲荷神社は明治四十三年六月三十日の創立に係り御祭神豊受皇太神を奉祀し来つた所近年台北市の発展に伴い崇敬者日に月に増加しつゝあるを以てこの機を逸せず一層之が崇敬の実を挙げしめたいとの理由の下に
- 天照皇太神
- 明治天皇
- 乃木希典
- の御祭神を増祀すると共に大台北市の氏神として相応しい神社名即ち台北神社と改称し時勢の要求に応じたき旨同社社掌原友次他氏子総代連署の上同神社祭神増祀並神社名変更願を先般市を経て台湾総督に願い出たが近く許可になるであろう — 大正15年12月20日付「台湾日日新報 第9568号」より
同じ台北市内でも郊外にあった台湾神宮と比べると、市街地にある日本人(内地人)向け繁華街の西門市場に隣接しており、日本人を中心とした台北市民から広く信仰を集めていた。その立地条件の良さから、台湾神社や伊勢神宮の大麻暦の頒布事業も台北稲荷神社で行われていた[6]。
台北稲荷神社は、1910年(明治43年)3月20日に台北市粟倉口街(現在の桂林路、華西街、環河南街一帯)にあった豊川稲荷分院内に祀られていたという穴守稲荷の分社を、西門市場へ勧請した[7]のが始まりである。本祀である穴守稲荷神社は、東京周辺の稲荷信仰の拠点として明治以降大きく発展していた神社であり、台湾へ移住した日本人商人の間でも、商売繁昌の神として崇敬を集めていた。
神社建立願
- 一 社号及祭神 社号 穴守稲荷神社 祭神 豊受皇大御神
- 二 建立地 台北庁大加蚋堡艋舺新起街市場構内
- 三 建物並境内ノ坪数及び図面 (略)
- 四 境内官民有ノ区別 台北庁公共営造将敷地
- 五 維持ノ方法 信者三百名ヲ於テ問フ貮ヶ年間ニ限リ壱ヶ月ニ付金五拾銭苑ヲ積立ル時ハ貮ヶ年ノ後金四千百六拾四余ヲ得ル是ヲ以テ神社ノ基本財産トシ其利子ヲ以テ維持費ニ充ツ(略)
- 六 本社承認證 別紙写ノ通 — 陳飛豪著「史詩與絶歌 以藝術為途徑的日治台灣文史探索」より
承認證
- 本社分霊ヲ台北庁大加蚋堡艋舺新起街市場内ニ奉祀ノ旨御申越相成正ニ承認候也
- 但シ官庁ニ対スル諸種ノ手続等ハ法規ニ抵触セザル様貴方限リ直接御履行相成度
- 明治四拾参年四月壱日
- 東京府下荏原郡羽田町大字鈴木新田六百五拾五番地
- 無格社穴守稲荷神社
- 右 社掌 金子市右衛門
- 崇敬者総代 橋爪孝次郎
- 仝 横山惣五郎 — 陳飛豪著「史詩與絶歌 以藝術為途徑的日治台灣文史探索」より
その後、同年4月1日には、穴守稲荷神社から改めて正式な分霊の承認を受け、台湾総督府より創建の為の寄付金集めの許可も受けた。また、同時期に台湾神社が修繕事業を行っていたので、台湾神社古材の撤下も申請している[8]。
同年11月下旬より、基礎工事が行われる。元々は市場に隣接した墓地であったので、土地全体を掘り起こし、土を取り除いて、新たにきれいな土を補充して、神社を祀るのに相応しい土地とした[9]。そして、11年29日には地鎮祭が大々的に斎行された[10]。
1911年(明治44年)2月11日には、上棟祭が斎行され[11]、合わせて社号が「穴守稲荷神社」から「台北稲荷神社」と改称された。社号改称許可願によれば、詳細な理由は示されていないが「穴守」の名称が不適当とされたことと、台北市に所在し、その市民が信仰するためとされる。
社号改称許可願
- 一 社号及所在地 穴守稲荷神社 大加蚋堡艋舺新起街市場構内
- 二 改称スベキ社号 台北稲荷神社
- 三 改称ヲ要スル理由 本社ハ東京府荏原郡羽田町鎮座ノ穴守稲荷神社ノ分霊ナルニ依リ其名ヲ襲用シタルモ右ハ神社ノ称号トシテ適当ナラザルノミナラズ此ニ台北ニ安置シ台北市民多数ノ信仰スルモノナルガ故ニ社号ヲ改称セントスル次第ナリ
- 右ノ理由ノ通ニ付御許可被成下度此度奉願候也
- 明治四十四年六月二十三日
- 大加仝蚋堡艋舺新起街一丁目 願人 木下新三郎
- 仝堡艋舺新起街二丁目三六番戸 仝 伊藤欣造
- 台湾総督伯爵佐久間左馬太殿 — 陳飛豪著「史詩與絶歌 以藝術為途徑的日治台灣文史探索」より
当初は同年3月1日(初午)に鎮座祭を行う予定であったが[12]、発起人側や井村台北庁長の都合により、最終的には6月に延期された[13]。また、総工費の1万円(現在の貨幣価値で数千万円)は民間人からの寄付金が用いられ、400坪の境内地に用材は全て無節の檜を用いて本殿・拝殿・社務所の3棟が建立された。
同年6月25日 - 鎮座祭・奉祝祭が斎行される。本来は、鎮座祭は鎮火祭・新殿祭と同日に行い、奉祝祭は翌日に行うのが故実だが、炎暑の中2日間にわたる祭典は、参列者の負担になることから、午前中に鎮座祭、午後に奉祝祭という形が取られた[14]。
もちひつく 稲荷の神の さきはへて 里はいよいよ にきひゆくらむ — 台湾神社宮司 山口 透、台北稲荷神社創建に寄せた和歌
高砂の 里を守りの 宮柱 たててしつめつ 豊受の神 — 三村ひでを、台北稲荷神社創建に寄せた和歌
同年10月22日には、寄附金等の行きがかり上、発起人をはじめとした民間で管理していたが、全て台北庁へ引き渡し、今後は台北庁が管理することになった。例月1・15日の祭日の他、25日を遷座記念祭日として毎月同日を祭日とした[15]。
1916年(大正5年)1月15日 - 加福台北庁長、市来警務課長、大戸係長、消防組頭取、副頭取以下重役が参向し、台北市の火事除祈祷が行われた[16]。
1926年(大正15年)12月20日 - 祭神増祀及び社号改称の申請がなされる[4]。
1937年(昭和12年)10月20日 - 台湾で最初の郷社に列格する[17]。
1938年(昭和13年)6月25日 - 例祭並に郷社列格奉祝祭が斎行される[18]。
1945年(昭和20年)5月31日 - 台北大空襲によって被災、終戦後も神前式を行うなど活動を続けていたが[19]、中華民国政府の台湾への移転に伴い廃絶した。
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