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長崎県佐世保市出身。姉がバレーボールをやっていて親に勧められたのをきっかけに小学4年からバレーボールを始める[1]。
佐世保北高校でのポジションはアタッカーで、2年生の時には長崎県内準優勝、3年生の時にもベスト4へ進出。リベロとして国体に選出され、キャプテンを務めながら5位入賞を果たす。
国際武道大学進学後に、リベロの素質を見抜いた徳永文利監督に命じられてリベロに転向し、3年次からレギュラーに定着した[2]。
2007年4月にNECブルーロケッツに入団[3]。新人ながらレギュラーを獲得し(連続出場試合記録、歴代1位更新)、5月の第56回黒鷲旗大会優勝に貢献、ベストリベロ賞を受賞した[4]。同年ユニバーシアード代表に選出され出場した。
2009年5月、NECが業績悪化・業績不振の為、無期限休部を発表。
移籍先が決らず路頭に迷うが、2009年8月に豊田合成トレフェルサ(現・ウルフドッグス名古屋)へ移籍[5]。
2009年度日本代表登録メンバーに初選出された。2010年、2013-16年度にも日本代表登録メンバーに選出された[6][7][8]。
2013/14 Vプレミアリーグにおいて、ベストリベロ及びサーブレシーブ賞を獲得した[9]。
2014年ワールドリーグ中のケガで右足首の手術をしている。成績不振で下位が続いたものの、2013年のアンディッシュ・クリスティアンソン監督との出会い、またチームキャプテン就任[10]により、チームが大きく変貌を遂げる。
2014/15V・プレミアリーグでは3位、2015/16シーズンは、天皇杯で優勝を果たし、2015/16V・プレミアリーグでも優勝を果たす。2016/17及び2017/2018 Vプレミアリーグでは2位。2018-19シーズンまでに4シーズン連続6度のサーブレシーブ賞、6シーズン連続のベストリベロ賞を受賞し、Vリーグで輝かしい記録を残す一方で、日本代表では、世界選手権、ワールドカップといった世界三大大会の出場メンバーに選出されることはなかった[11]。
2019-20シーズン、2020年2月2日、パナソニックパンサーズ戦でアキレス腱損傷(断裂)を負い、35歳にして長期離脱を余儀なくされた[12]。
2020-21シーズン終了をもって現役引退[13]。2021年3月28日のV・レギュラーラウンド最終戦終了後に引退セレモニーが行われ、それをもってユニフォームを脱ぐこととなった[11]。その試合は、弟・古賀太一郎が在籍するFC東京が対戦相手で、引退の理由ともなったアキレス腱断裂を負ったパークアリーナ小牧(小牧市スポーツ公園総合体育館)が会場である[14][15]。支えてきたファン、両親、家族をはじめたくさんの方々に最後の姿を見せられ、兄弟対決は最高の親孝行になると意気込んだ[11]。最終戦は1年ぶりにスタメンリベロとして出場となり、太一郎との兄弟対決が実現し、これが引退試合となった[15]。試合はWD名古屋がストレートで勝ち有終の美を飾った[15]。引退セレモニーでは、太一郎と自身の3人の子供から花束が贈られた[16]。
このシーズンで代わりにリベロとして出場していたのは、入団2年目の小川智大で、小川はサーブレシーブ賞とベストリベロ賞を受賞した[17]。前シーズンの古賀の負傷後も小川が代わりに出場を続け、小川がそのまま古賀の後を継ぐ形となった。
2023年より、愛知工業大学名電高等学校バレーボール部の専属コーチに就任した。
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