六供町 (岡崎市)
岡崎市の町 ウィキペディアから
地理
岡崎市のやや西に位置する。主に住宅地を形成している。20個の小字を持つ。六供町1丁目、六供町2丁目、六供町3丁目、六供町4丁目があるが、これらは全て小字であり、正確には六供町字1丁目~六供町字4丁目と表記される。よって当町には番地、丁目は置かれていない。
小字
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世帯数と人口
2019年(令和元年)5月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[2]。
人口の変遷
国勢調査による人口の推移
1995年(平成7年) | 2,288人 | [5] | |
2000年(平成12年) | 2,173人 | [6] | |
2005年(平成17年) | 2,204人 | [7] | |
2010年(平成22年) | 2,138人 | [8] | |
2015年(平成27年) | 2,025人 | [9] |
小・中学校の学区
市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[10]。
歴史
ろっくまち → ろっくむら 六供町 → 六供村 | |
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廃止日 | 1889年10月1日 |
廃止理由 |
新設合併 岡崎横町、岡崎亀井町、岡崎久右衛門町、岡崎魚町、岡崎康生町、岡崎材木町、岡崎十王町、岡崎松本町、岡崎上肴町、岡崎伝馬町、岡崎田町、岡崎唐沢町、岡崎島町、岡崎投町、岡崎能見町、岡崎八幡町、岡崎板屋町、岡崎福寿町、岡崎門前町、岡崎祐金町、岡崎裏町、岡崎両町、岡崎連尺町、岡崎六地蔵町、岡崎籠田町、菅生村、中村、梅園村、八帖村、六供村 → 岡崎町 |
現在の自治体 | 岡崎市 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 中部地方、東海地方 |
都道府県 | 愛知県 |
郡 | 額田郡 |
六供町 → 六供村役場 | |
所在地 |
愛知県額田郡六供町 額田郡六供村 |
ウィキプロジェクト |
額田郡六供村を前身とする。当初は額田郡六供町(岡崎六供町)であったが、一度六供村になっている。江戸時代は甲山寺領であった。
甲山にある甲山第1号墳は、直径100メートル以上で4世紀後半に作られた三河地方最大の古墳であると考えられる[11]。
沿革
- 1876年(明治9年) - 岡崎六供町と岡崎上肴町の一部が合併し、六供村となる[12]。
- 1994年(明治17年) - 一部を岡崎能見町へ編入[12]。
- 1889年(明治22年)10月1日 - 町村制施行に伴い、岡崎横町・岡崎亀井町・岡崎久右衛門町・岡崎魚町・岡崎康生町・岡崎材木町・岡崎十王町・岡崎松本町・岡崎上肴町・岡崎伝馬町・岡崎田町・岡崎唐沢町・岡崎島町・岡崎投町・岡崎能見町・岡崎八幡町・岡崎板屋町・岡崎福寿町・岡崎門前町・岡崎祐金町・岡崎裏町・岡崎両町・岡崎連尺町・岡崎六地蔵町・岡崎籠田町・菅生村・中村・梅園村・八帖村・六供村が合併し、岡崎町大字六供となる。
- 1916年(大正5年)7月1日 - 市制施行に伴い、岡崎市大字六供となる[13]。
- 1917年(大正6年)7月1日 - 六供町に改称[13]。
- 1945年(昭和20年)7月20日 - 岡崎空襲を受け六供町の一部が焼失。
- 1957年(昭和32年)11月15日 - 一部が六供本町1~2丁目・八幡町1~3丁目・亀井町2丁目・東能見町となる[13]。
史跡
施設
- 岡崎六供郵便局
- 北部公民館
- 岡崎市民会館
- 甲山公園
- 愛宕公園
- 六供浄水記念公園[15]
- 六供配水場
- 旧石原家住宅(主屋・土蔵:1859年建設、国登録有形文化財)
- 甲山寺
- 記念寺
- 宝林寺
- 貞松寺
- 常福寺
- 薬師寺
- 一乗寺
- 甲山八幡宮
教育
- 愛知教育大学附属岡崎小学校
- 愛知教育大学附属特別支援学校
- 学校法人愛隣幼稚園 愛隣幼稚園
ギャラリー
- 旧石原家住宅
- 甲山八幡宮
- 愛隣幼稚園
- 愛隣幼稚園
- 甲山(かぶとやま)。甲山古墳としても知られる。
- 甲山公園
- 六供浄水記念公園
- 六供町にあった岡崎市立高等女学校(現・愛知県立岡崎北高等学校)の講堂。岡崎空襲により焼失。
- たつきの鐘[注 1]
交通
- 道路
- 愛知県道477号東大見岡崎線・都市計画道路明代橋線[22]
- モダン道路
- 師範通り
- 市民会館通り
- バス
- 名鉄バス
- 大樹寺線
- 岡崎線
- 岩中線
- まちなかにぎわいバス
- 南北ルート
その他
日本郵便
脚注
参考資料
関連項目
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