信濃比叡広拯院
長野県阿智村にある仏教寺院 ウィキペディアから
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信濃比叡広拯院(しなのひえいこうじょういん)は長野県阿智村智里園原にある天台宗の寺院。院号を広拯院と称する。本尊は薬師如来である。
信濃比叡広拯院 | |
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山門 | |
所在地 | 長野県下伊那郡阿智村智里3592-4 |
位置 | 北緯35度27分36.4秒 東経137度40分04.8秒 |
院号 | 広拯院 |
宗派 | 天台宗 |
本尊 | 薬師如来 |
創建年 | 弘仁8年(817年) |
中興年 | 平成17年(2005年) |
法人番号 | 4100005009709 |
寺地は古代東山道の最大難所、神坂峠の信濃側ふもとの山里園原で、古代より中世にかけて和歌に詠まれた、歌枕の一帯でもある。
弘仁8年(817年)伝教大師(最澄)が東国巡錫のおり、神坂峠越えをされ、難儀を体験する。伝教大師はこのことより旅人の便宜を図るため、美濃側に広済院、信濃側に広拯院の布施屋を建てる。このことは「叡山大師伝」に記載あり[1][2]。
この布施屋が本寺の始まりで、信濃側広拯院跡地に建つ、月見堂は文政年間に再建され、薬師如来が安置されていた。
昭和3年(1928年)広済、広拯の遺跡を善光寺別當大勧進大僧正水尾寂曉、滋賀県華蔵院住職兼善光寺大勧進副住職僧正渋谷慈鎧、和歌山県粉川寺住職僧正逸木盛照、岡山県芦田郡多聞寺権僧正清田寂榮一行が調査[2]にきて、場所を特定したと推定される。
月見堂の大書額面「瑠璃殿」は水尾寂曉の自筆で月見堂に寄進された。現在は根本中堂に移管されている。
昭和50年(1975年)古代東山道最大の難所、神坂峠の真下を中央自動車道恵那山トンネルが開通し供用を開始する。
平成8年(1996年)伝教大師(最澄)像を建立。比叡山延暦寺に建つ、伝教大師像と同一の鋳型が使用されている。
平成12年(2000年)伝教大師遺跡施設のある、月見堂一帯を「信濃比叡」と呼称することを延暦寺より賜る。
平成17年(2005年)善光寺大僧正村上光田、信濃比叡広拯院として復興開山。根本中堂、鐘楼等建立し、総本山延暦寺より「不滅の法灯」を分灯される。
平成28年(2016年)伝教大師東国巡錫1200年の節目として、山門を建立する。
長野県下伊那郡阿智村智里3592-4
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