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北は洞下、北東は高野原新田、明石、東は水守、和台原、南東は和台、北原、南は大砂、大久保、南西は西高野、西は安食、北西は寺具に隣接している。
小字は以下の通り[2]。
江戸期は作谷村であり、筑波郡のうち。はじめ佐竹氏領、慶長8年小張藩領、元和2年幕府領、寛永年間は旗本筧氏・中山氏・服部氏の相給。元禄年間は武蔵久喜藩と旗本筧氏ほか旗本3氏の相給、幕末期は幕府と旗本筧氏とほか旗本3氏の相給。村高は「元禄郷帳」では作屋村として826石余、「天保郷帳」では古くは作屋村とあり造谷として896石余、「旧高薄」1,087石余。文政11年の戸数91・人口430、居酒屋3・荒物商5・薪炭商3・髪結1・酒造人の農間渡世人がいた。安政2年の村柄明細帳によると旗本筧鉄之助領318石、戸数23・人口91、馬9、旗本中山治郎右衛門領48石、戸数4・人口120、馬6、旗本服部又一郎領240石、戸数22・人口111、馬8と幕府領20石。殿内・西坪・上坪・下坪の4坪からなり幕末には殿内296石・戸数37、西坪339石・戸数32、上坪151石・戸数23、下坪119石・戸数18で、このほかに無人の高野原新田68石が村の北端にあった。鎮守の鹿島神社、真言宗東済寺・同東福院・同威徳院・同玉蔵院・天台宗放光院があった。年貢は鬼怒川の宗道河岸まで駄送りした。村の東端に大池があるが、その水利権は明石・田中・水守の3か村が持っていた。上坪の名主飯塚家の母屋は天明4年に貧民救済事業の「おたすけ普請」として建築された。明治初年頃幕府領の高野原新田48石を分村。明治2年の村明細帳によると、田44町・畑99町・御林3町があった。同書では家数104・人数馬48で、医師1・馬医1・酒造人2・濁酒造人4・木挽5・大工2の農間渡世人がいた。明治8年茨城県、明治11年筑波郡に所属。明治9年上坪に作谷小学校を設立。明治22年作岡村の大字となる[3][4]。
市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[6]。
番地 | 義務教育学校 |
---|---|
全域 | 秀峰筑波義務教育学校 |
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