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佐藤 長助(さとう ちょうすけ、1906年4月10日 - 1983年9月5日)は日本の作曲家。別名青葉宵三(あおば よいぞう)。主に軍歌や戦時歌謡の作曲者として、また東北地方を中心とした童謡の作曲者としても知られる。
宮城県仙台市原町で出生。小学校卒業後に代用教員を務めるかたわら、当時仙台において天江富弥、スズキヘキが主導した児童文化運動、おてんとさん社の活動に参加。おてんとさん社が行っていた童話・童謡会の運営に携わるなかで自らも童謡の作曲をはじめ、『つくしんぼ小山』をはじめ多くの童謡を発表した。
1926年上京して陸軍戸山学校軍楽科に入学。作曲・クラリネットなど音楽専門教育を受けたのち、首席で卒業。陸軍教育総監から銀時計を授与された。軍楽隊では大沼哲に師事して対位法、管弦楽法、作曲法、指揮法を学んだほか、東京音楽学校のクラウス・プリングスハイムにも師事した。この時期、軍楽隊内で行われた軍歌『陸軍行進曲』作曲の競作で佐藤の『陸軍行進曲その一』(巖谷小波作詞)が選ばれ、同じく『朝日に匂う桜花』(本間雅晴作詞)の競作では陸軍教育総監賞を受賞して存在が注目された。軍楽隊に所属するかたわら、青葉宵三のペンネームで『噫肉弾三勇士』、『日本刀の歌』など歌謡曲をキングレコードから発表。作曲家として自立する目処がついたことから1933年陸軍を除隊した。
陸軍除隊と同時にキングレコード専属作曲家となり楽壇に進出。1939年には陸軍省選定の軍歌『愛馬行』がヒット。戦後『男一匹の唄』と改題してヒット曲になった『赤い夕陽は砂漠の果に』を手掛けるなど、戦時歌謡の作曲者として活躍した。一方、仙台時代から続けていた独唱歌曲の分野では、1942年に歌曲『そばの花咲く道』が文部大臣賞新人賞を受賞した(戦災で滅失)。太平洋戦争が始まると再び陸軍に徴用され、古巣の戸山学校で教官を務めたが、除隊後は疎開のため仙台に帰郷した。
仙台で終戦を迎えると、かつてのおてんとさん社のメンバーと共に児童文化運動の復興に取り組み、NHK仙台中央放送局の子供向けラジオ音楽番組、「東北うたのほん」の制作に企画から関与。『わんがまわし』『くるみ』といった佐藤の作品のほか、福井文彦、海鋒義美などが作曲した東北地方の童謡が長期間にわたって東北各県に放送された。1948年にはNHK仙台放送管弦楽団の指揮者に就任、1951年には宮城県警察の要請により宮城県警察音楽隊を創設した。この時期には東北各地の学校校歌、自治体の歌、『宮城野盆歌』(渡辺波光作詞)をはじめとする地域行事の歌などを数多く作曲した。
1957年に再度東京に居を移し、キングレコード専属作曲家に復帰。軍歌・民謡などの編曲を手掛けた。1966年には全日本吹奏楽連盟の委嘱により第14回全日本吹奏楽コンクール課題曲『学園序曲』を作曲。1980年、宮城県より文化功労賞を受賞、宮城県文化功労者となる。
出典[1]
出典[1]
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