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日本および律令国家における個人の序列 ウィキペディアから
位階(いかい)とは、国家の制度に基づく個人の序列の標示である。位(くらい)ともいう。「位階」という語は、基本的には地位・身分の序列、等級といった意味[1]である。制度としての「位階」は、元は古代中国の政治行政制度である律令制や、それを継受した国における官僚・官吏の序列の標示(身分制度)である[1]。後には、位階は、長く官職にあった者や特に功績のあった者などに与えられる栄典の一となった。位階を授与することを「位階に叙する」または叙位(じょい)という[注釈 1]。
日本における「位階」制度は律令制に基づく政治行政制度と共に中国から継受し、独自の発展を遂げた。
官吏の序列を定める制度は、603年(推古天皇11年)に冠位十二階の制度を定め、官人に対して冠を与えたのが初めとされる。この「冠位」制度はその後数度の変遷を経て、701年(大宝元年)の大宝令および718年(養老2年)の養老令により「位階」制度として整備された。律令制における位階は親王が4階(品位、ほんい)、諸王が15階、諸臣が30階ある。位階は功労に応じて昇進があり、位階に対応した官職に就くことを原則とした(官位相当制)。また原則として軍功に授けられた勲位(勲一等から勲十二等の勲等)とも連動し、あわせて位階勲等と称した。
位階(品位を含む)は、性別を問わず授与される。位階を授与される年齢は元服(加冠、初冠)して成人と認められた後で、時代や階層により幅がある。また、生存者のみならず、故人にも授与される。故人に対する位階の授与には、没後に生存中の日付で授与する場合と、没後に没後の日付で位階を贈る「贈位」がある。さらに、人間に留まらず神道の神や神社に位階を与える「神階」の制度が定められ(673年(天武天皇2年)より。後には、神社に対する勲位の授与も行われた。)、朝廷に献上されたり参内した動物や皇族が飼育するペットに授与されることもあった。命婦の御許(みょうぶのおとど、一条天皇の飼い猫)や五位鷺(ごいさぎ)、広南従四位白象に授与した故事などはその例である。
位階制度は、本来は能力によって位階を位置付け、その位階と能力に見合った官職に就けることで官職の世襲を妨げることを大きな目的とした。しかし、蔭位の制を設けるなど世襲制を許す条件を当初から含んでいた。そのため、平安時代の初期には人材登用制度としての位階制は形骸化して、一部の上流貴族に世襲的な官職の独占を許すに到った。また、成功(じょうごう)や年料給分(年給)などの半ば制度的な売官も盛んに行われた。また、9世紀に入ると、叙位の基準が勤務評定を基準とした本来の方法(成選制)から官職ごとの年功序列(年労制)に切り替わったことや令外官の増加によって、位階よりも官職を重視する風潮を強まり、10世紀から院政期にかけては位署の方法について位階の上下関係を重視する公式令の原則を官職の上下関係を重視する式部式を根拠として打ち破ろうとする動きが見られ始める(公式令の原則では、四位でも就けかつ職事官ではなかった参議よりも非参議の方が署名の上位になってしまうなどの不満があった)[2]。更に、同じ9世紀に昇殿の制度ができると、朝廷の身分制度として、位階や官職だけでなく、昇殿を認められているかが重要となった。昇殿を許された殿上人(堂上、10世紀以降はおおよそ五位以上)に対し、昇殿を許されていない者を「地下(ぢげ)」と呼んで区別した。もっとも、位階そのものは以後もある程度の効力を持って存続し、基本的な体系も変わることなく、明治維新まで保持された。
明治時代の初期には新たに近代的な太政官制が敷かれ、多くの制度が再編整備された。この中で位階制は正一位から少初位まで18階に簡素化された(後に初位の上に正九位および従九位を設けて20階とした)ものの、律令制での官位相当制に倣い新たに作り上げられた官職制と深く結びついて存在した[3][注釈 3][注釈 4]。
1871年9月24日(明治4年8月10日)には明治4年太政官布告第400号が施行され、従来の官位相当制は廃止されて新たに15階からなる「官等」が定められた。このことで位階制と官職制は分離したが、位階制が廃止されたわけではなく、その後も官吏をはじめとした諸人に位階は与えられ続けた。また1875年(明治8年)4月10日の詔により、勲等賞牌制(勲等と功級からなる勲位制、勲章制度)が定められ、位階制に併せて栄典としての役割を分有することとなった。
明治時代の半ば1887年(明治20年)5月4日に公布された叙位条例(明治20年勅令第10号)は、「凡ソ位ハ華族勅奏任官及国家ニ勲功アル者又ハ表彰スヘキ勲績アル者ヲ叙ス」(1条)と定められ、位階は栄典の役割に特化した。このとき位階数はやや簡素化され、正一位から従八位までの16階とされた。位階は、この少し前の1884年(明治17年)7月7日に出された華族令(明治17年宮内省達)により定められた爵位制(華族制度)と連動するものとされた。さらに位階奉宣事務が宮内省華族局の管轄となり、位階奉宣事務取扱手続・叙位進階内規があいついで定められ明治国家の位階制は一応完成した。位階制は、「華族・勅任官・奏任官・非職の有位者・効績者のそれぞれの内部序列の基準となるとともに、すべての階層の宮廷での朝班の基準として機能し、「官位勲爵」制の官職制・勲等制・爵位制を束ねるものとして、明治国家のなかに位置付けられた」[5]とされる。叙位条例は、1926年(大正15年)10月21日に公布された位階令(大正15年勅令第325号)により廃止された。
第二次世界大戦後、国家・社会の制度が大きく変革され従来の栄典制度や官吏制度も改革された。1946年(昭和21年)5月3日の閣議決定により、生存者に対する叙位・叙勲は停止された[6]。その後、1964年(昭和39年)に生存者叙勲が再開されたときも生存者に対する叙位は再開されなかった[7]。ただし生存者に与えられた位階は取り消されておらず、例えば中曽根康弘は終戦までに有していた従六位のまま、次に述べる故人に対する叙位制度によって、2019年の死去の際に従一位に追叙(進階)されている。
故人に対する叙位は引き続き行われ、1947年(昭和22年)5月3日に施行された日本国憲法の下では内閣の助言と承認により天皇の国事行為として行われる栄典の一つとされ改正位階令(大正15年勅令第325号。昭和22年5月3日政令第4号により改正)をその法的根拠とした。ただし、天皇に叙位の決定権があるわけではない。2001年(平成13年)の栄典制度改革においても、「我が国の歴史や文化にかかわりのある日本固有の制度として価値があるとともに、現在は、国家・公共に対して功績のある人が死亡した際に、生涯の功績を称え追悼の意を表するものとして運用されていることから、存続させることが適当である」[8]として大きな制度変更は行われなかった。同じく栄典の一つである叙勲は内閣府賞勲局が所管するのに対して、位階については内閣府大臣官房人事課が所管する[9]。
親王 (品位) | 諸王 | 諸臣 | 外位 | |
---|---|---|---|---|
1 | 一品 | 正一位[注釈 5] | ||
2 | 従一位 | |||
3 | 二品 | 正二位 | ||
4 | 従二位 | |||
5 | 三品 | 正三位 | ||
6 | 従三位 | |||
7 | 四品 | 正四位上[注釈 6] | ||
8 | 正四位下 | |||
9 | 従四位上 | |||
10 | 従四位下 | |||
11 | 正五位上 | 外正五位上 | ||
12 | 正五位下 | 外正五位下 | ||
13 | 従五位上 | 外従五位上 | ||
14 | 従五位下 | 外従五位下 | ||
15 | 正六位上[注釈 7] | 外正六位上 | ||
16 | 正六位下 | 外正六位下 | ||
17 | 従六位上 | 外従六位上 | ||
18 | 従六位下 | 外従六位下 | ||
19 | 正七位上[注釈 8] | 外正七位上 | ||
20 | 正七位下 | 外正七位下 | ||
21 | 従七位上 | 外従七位上 | ||
22 | 従七位下 | 外従七位下 | ||
23 | 正八位上[注釈 9] | 外正八位上 | ||
24 | 正八位下 | 外正八位下 | ||
25 | 従八位上 | 外従八位上 | ||
26 | 従八位下 | 外従八位下 | ||
27 | 大初位上[注釈 10] | 外大初位上 | ||
28 | 大初位下 | 外大初位下 | ||
29 | 少初位上 | 外少初位上 | ||
30 | 少初位下 | 外少初位下 |
位階制度は位階と官職を関連づけることにより(官位制)血縁や勢力にとらわれず適材適所を配置し、職の世襲を防ぐと共に天皇が位階を授与することで全ての権威と権力を天皇に集中し天皇を頂点とした国家体制の確立を目的とした。
大宝令・養老令のうち官位について定めた官位令によれば、皇親(皇族)の親王(女性の内親王を含む)は一品(いっぽん)から四品(しほん)までの4階、諸王(女性の女王を含む)は正一位から従五位下まで14階、諸臣(臣下。女性の女官を含む)は正一位から少初位下(しょうそいのげ)まで30階の位階がある[10] [11]。
正位は「しょうい」、従位は「じゅい」と読む。また一般的に三位は「さんみ」、四位は「しい」、七位は「しちい」と読む[11]。
また、叙位や任官について定めた選叙令によれば、内外の五位以上は勅授、内八位・外七位以上は奏授、外八位及び内外の初位は皆、太政官の判授とした[12] [13]。内外文武の官に任じるとき本人の位階と官の相当位階に高低があるならば、もし職務の相当位階が低いなら行とし高いならを守とすることとした[14] [15]。
律令制では位階によって就くことのできる官職が定まっていた(官位相当制)[10] [11]。また、礼服・朝服は位階に応じて色等が定められ、特定の色や素材の衣類、乗り物、所持品等は一定の位階以上にのみ許される等、制限が加えられた。また、五位以上の者には位田が支給される規定となっていた。なお、律令制における「貴族」とは五位以上の者を指した。また、全ての官人が位階を有していた訳ではなく、官位相当制のない使部・伴部・舎人などの下級官人の中には无位(無位)の官人も存在した[16]。
朝廷及び明治新政府では、故人に対して生前の功績を称え位階または官職を追贈することがあった。位階を贈ることを贈位、官職を贈ることを贈官といった(例:贈正四位、贈内大臣)。
父祖の地位・位階 | 子・孫に授けられる位階 |
---|---|
親王 | 従四位下 |
諸王 | 従五位下 |
五世王[注釈 11] | 嫡子 → 正六位上 庶子 → 正六位下 |
正一位、従一位 | 嫡子 → 従五位下 庶子 → 正六位上 嫡孫 → 正六位上 庶孫 → 正六位下 |
正二位、従二位 | 嫡子 → 正六位下 庶子 → 従六位上 嫡孫 → 従六位上 庶孫 → 従六位下 |
正三位、従三位 | 嫡子 → 従六位上 庶子 → 従六位下 嫡孫 → 従六位下 庶孫 → 正七位上 |
正四位 | 嫡子 → 正七位下 庶子 → 従七位上 |
従四位 | 嫡子 → 従七位上 庶子 → 従七位下 |
正五位 (内位・外位とも) | 嫡子 → 正八位下 庶子 → 従八位上 |
従五位 (内位・外位とも) | 嫡子 → 従八位上 庶子 → 従八位下 |
律令制では、高位者の子孫に位階を授ける蔭位(おんい)の制度が設けられた。養老律令の選叙令によれば、子孫が21歳以上になったときに叙位され[18] [19]、蔭位資格者は皇親・五世王の子[20] [21]、諸臣三位以上の子と孫、五位以上の子である[22] [23]。勲位・贈位も蔭位の適用を受ける。蔭位の制は中国の律令制に倣った制度だが中国の制度よりも資格者の範囲は狭く、与えられる位階は高い。
序列 | 位階 |
---|---|
1 | 正一位 |
2 | 従一位 |
3 | 正二位 |
4 | 従二位 |
5 | 正三位 |
6 | 従三位 |
7 | 正四位 |
8 | 従四位 |
9 | 正五位 |
10 | 従五位 |
11 | 正六位 |
12 | 従六位 |
13 | 正七位 |
14 | 従七位 |
15 | 正八位 |
16 | 従八位 |
位階制は、明治維新により律令法が廃された後も、太政官においてその運用や制度に変更を加えながら続けられた。
1868年1月9日(慶応3年12月14日)に三職に任ぜられた藩士に対する従五位下の位階への叙爵を純仁親王が建議しており[25]、1868年6月12日(慶応4年(明治元年)閏4月22日)に政体書の官等制で三等官以上[注釈 13]の徴士に位階を授け二等官は従四位下、三等官は従五位下とした[27] [28]。
その後、政体書の官等制と官位を併用すると甚だ不体裁であることから、1868年12月21日(明治元年11月8日)に五等官以下については在勤中は官位を返上するように命じ、名前から官名を除いて通称を用いることとし[29][30]、1869年2月15日(明治2年1月5日)に下大夫以下[注釈 14]の官位を止め[33]、明治2年5月には医師・画工・職人等の位階及び国名の受領を止める[34]などみだりに叙位することを止める一方で、1869年3月16日(明治2年2月4日 )に堂上・諸侯について叙任規則を定め[35]、諸官人・諸大夫・坊官等についても初官位について定める[36]など位階を統制する。
1869年8月15日(明治2年7月8日)に官位を改正して従来の百官並びに受領を廃止し四位から初位までの位階から上下の称を廃止するなどの簡素化をはかる[37]。なお、これまで拝叙の位階はそのままにして無官の者は位階を以って称することとした[37]。また、職員令により官等の一等官から九等官までを廃止して更に官位相当制を定めた[38] [注釈 15]。
同年8月18日(7月11日)に位階は従四位以上を勅授(ちょくじゅ[41])、従六位以上を奏授(そうじゅ[42])、正七位以下を判授(はんじゅ[43])とし[44]、同年9月3日(7月27日)に従四位以上を勅任、従六位以上を奏任、正七位以下を判任とし、ただし判任について官はその長官よりこれを授け位階は太政官よりこれを賜うとした[45]。官に任と言い位に授と言うことになる[46] [注釈 16]。
さらに同年9月27日(8月22日)の官位相当表改正[48]により初位の上に九位(正九位、従九位)を設けて全20階とした上で従一位から従九位までの官位とした[24] [49] [注釈 17]。なお、正一位と大初位・少初位は官位相当のない虚位であるため官位相当表から省かれた[48] [50]。任官された人物が官位相当表の位階と異なる不相当のときは、位署書に行・守の字を記して区別することになっていた[48] [50]。 官吏の報酬である官禄は官位相当表によって定めた[51] [52]。
1870年3月30日(明治3年2月29日)に、任官のときに初めて叙位される者は本官の相当位階から2等下に叙位することにし、ただし勅任官については正四位以下相当の分は総て初めは従五位、三位以上相当は総て従四位にすることにして[53]、官位相当制により官職に就く者へ新制度の位階の叙位をはかる。また、1870年9月15日(明治3年8月20日)に、免職の後なお東京に滞在の命がある者は位階を返上しなくてもよくなる[54]。 その一方で、1870年10月4日(明治3年9月10日)に藩知事の一門の者へ叙位すること止め[55]、1870年10月13日(明治3年9月19日)に旧官人・元諸大夫・侍並びに元中大夫等[注釈 14]の位階を総てこれを廃止しその国名あるいは旧官名を通称とすることもまたこれを停止し[56]、諸社神職の位階を有する者が官省出仕中は位階をやめる[57]など旧制度の位階を止める。ただし、華族格の者については爵位[注釈 18]は維持した[58]。 1870年11月24日(明治3年閏10月2日)に判任の者へは位階を下賜しないことになった[59]。
1871年8月29日(明治4年7月14日)の廃藩置県[60]の後、同年9月13日(明治4年7月29日)に諸官省に先立って太政官の官制を改正し、従前の官位相当表では従四位以上を勅任、従六位以上を奏任、正七位以下を判任としてきたが、この際に正四位以上を勅任として正二位から正四位までの5等に分かち、正六位以上を奏任として従四位から正六位までの4等に分かち、従六位以下を判任として従六位から従九位までの7等に分つ[61]。
1871年、9月24日(明治4年8月10日)に官位相当制を廃止して官等を15等に定めた[62] [注釈 15]。 官位相当制を廃止したけれども位階を賜う例は廃止することはなく、その後は任官毎にその官等に従い位階を授けることになる[63]。 1872年1月18日(明治4年12月9日)改定の勅奏任官任叙式では太政大臣の宣を書し、勅授位は天皇御璽、奏授位は太政官印を押した。1873年(明治6年)6月19日に改定した勅授位記書式では大臣の奉を書すことになる[64]。 有位者の取り扱いについては、1875年(明治8年)3月14日に従四位以上は勅授、従九位以上は奏授、初位は判授と解することになる[65]。ただし、非役の者については四位以上は勅任に準じ、従九位以上は奏任に準じ、初位は判任に準じて取り扱うことにした[65]。
1874年(明治7年)、4月には、奏任官を満四年以上務めた場合は位記を返上しなくてもよくなり[66]、1875年(明治8年)4月に勅任官は有罪になった場合を除き勤務年月に拘らず位階を保持できることになり[67]、1876年(明治9年)4月に奏任官も通常解官は勤続年数に拘らず位記を返上しなくても良くなる[68]。
1875年(明治8年)5月18日に女官も官相当より2等下の位階に叙位することした[69]。
1879年(明治12年)には位階制度の改正を検討しており、同年2月16日に位階制度の改正が決定するまでは旧制により順次宣下することにした[70]。
1887年(明治20年)5月4日には位階制度の再編が行われ、「叙位条例」(明治20年勅令第10号)が制定された。これにより位階は正一位から従八位までの16階とされ、対象者は「凡ソ位ハ華族勅奏任官及国家ニ勲功アル者又ハ表彰スヘキ効績アル者ヲ叙ス」とされた(叙位条例1条)。
従四位以上は勅授(宮内大臣から伝達)、正五位以下は奏授(宮内大臣が天皇に奏して叙位)。従四位以上は華族制度に基づき、従一位は公爵、正二位は侯爵、従二位は伯爵、正従三位は子爵、正従四位は男爵に準じる礼遇を受けた。所管は宮内省宗秩寮。
大日本帝国憲法の制定前に、フランシス・テイラー・ピゴットらにより官吏の懲戒制度の設置も検討されたが、実現したことはうかがえない。
皇族・華族・爵位者については1910年(明治43年)、宮内省の宗秩寮審議会が懲戒することができるとされたが、議事は秘密とされていた。
1926年(大正15年)10月21日には「位階令」(大正15年勅令第325号)が制定された。位階令では従来の叙位条例から叙位対象の順序が変更され、「国家ニ勲功アリ又ハ表彰スヘキ功績アル者」、「有爵者及爵ヲ襲クコトヲ得ヘキ相続人」、「在官者及在職者」とされ、栄典制度としての側面をより強調することとなった。
位階制度は栄典制度の一つとして勲章・褒章と共に維持されたものの、臣民にのみ与えられ、皇族は叙位されることはなかった。皇籍を離脱した者は叙位の対象となる。叙勲と異なり、日本国籍を失ったときは位も失い、外国人が叙位されることもなかった。これも所管は宮内省宗秩寮である。
位階令によると正二位以下の授与形態に変更はなかったが、正従一位は特に親授(親授式で、天皇から位記を授与)とされた。
第二次世界大戦の終了後の1946年(昭和21年)、生存者に対する叙勲と叙位は一時停止された[6]。
1947年(昭和22年)5月3日に位階令と位階令施行細則は、帝国議会最後の吉田茂内閣の内閣官制の廃止等に関する政令などにより、「軍法会議」、「犯罪即決官庁」、「即決の言渡」などの条項削除、「宮内大臣」と「宗秩寮総裁」を「内閣総理大臣」に改める、などと改正された。宮内省と宗秩寮は廃止され、華族制度の廃止とともに有爵者相続人の叙位も廃止する。
死亡者に対する叙位はその後も行われ、内閣の助言と承認により行われる天皇の国事行為である「栄典」の一つとされ、日本国憲法の下で従来の位階令を法的根拠とする。死亡者のみを対象とするために故人の功績を称え追悼する意味合いが強く、官報で公示される。
授与の選考基準は功績種別により異なるが、対象者は議員・公務員・消防団員・教員など長く公的な職にあった者や、在職中に死亡した公務員が多い。皇族、王族および公族は適用されない。叙勲の所管は内閣府賞勲局で、叙位の所管は内閣府大臣官房人事課[注釈 19]である。
1952年(昭和27年)第15回国会に位階の規定のある栄典法案が提出され、叙勲にこの法令を併用して「表彰の方途に潤いを持たせたく考える」(緒方竹虎内閣官房長官)としていたが、同法案は廃案となった。
生存者に対する叙勲は、1964年(昭和39年)に再開された。
叙位された場合、それを証する位記が交付される。位記のサイズは、従四位以上は縦22.5横30.4センチメートルで、正五位以下は縦21.3横29.7センチメートルである[72]。正二位以下は御璽・内閣之印の上に元号年月日が記されるが、従一位以上では御名御璽の横に元号年月日が記される。位記には縦書きで次のような記載がなされる。
(位階)氏名
従一位に叙する
御名御璽
元号 年 月 日
内閣総理大臣 氏名
(位階)氏名 従四位に叙する 御璽 元号 年 月 日 内閣総理大臣 氏名 奉
(位階)氏名
正五位に叙する
内閣之印
元号 年 月 日
内閣総理大臣 氏名 宣
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