五百澤智也
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五百澤 智也(いおざわ ともや、1933年5月30日 - 2013年12月14日[1])は、日本の地理学者。山岳・氷河地形研究者であり、山岳鳥瞰図作家として知られる。
山形県山形市出身[2]。東京教育大学理学部地学科地理学専攻卒業[2]。大学時代には、九州南端の開聞岳から北海道の利尻山まで日本各地の山々に登り、日本アルプスにおける氷河地形の発達について強い関心を抱く。大学卒業後には魚沼水無川シン沢単独遡行。建設省地理調査所(のちの国土地理院)を37歳で退職するまで、空中写真撮影、写真判読、基本図測量、修正測量、地形図製作などに従事し、積雪調査の開発研究にあたる。1962年には、それまで知られていなかった槍・穂高山域で最低位の堆石堤群を発見し[2]、その後、日本の氷河地形の再検討を続ける。退職後は日本山岳会東海支部のマカルー登山隊に付属する地球科学学術隊に参加し、ヒマラヤの氷河地形を研究した。
13回のヒマラヤ山域調査行を重ね[2]、氷河や地形調査のため7回のフライトを実施し、そこで得た多数の空中写真のステレオグラムを利用して、山岳図の作成や調査研究を行い、1970年から1980年代にかけて山岳雑誌「岳人」や「山と溪谷」などに日本アルプスやヒマラヤの鳥瞰図を連載。空中写真判読の技法である航空写真の実体視を導入した科学的な視点と、優れた描画技術に基づいて描かれた鳥瞰図は、山岳・氷河地形の客観的な観察記録として高い評価を受けている。1983年には「日本アルプス及びヒマラヤにおける氷河地形と地誌の研究」に対し第19回秩父宮記念学術賞を受ける[2]。
これまでに画帳・スケッチブック合わせて36冊、フィールド・ノートがヒマラヤ32冊、国内30冊にも及び、水彩スケッチやフィールド・ノートのラフスケッチなど数多くの記録を残している。愛媛大学、宇都宮大学の非常勤講師と調査研究、執筆業、日本国際地図学会評議員、日本山岳会会員、国土地理院「山の高さに関する委員会」委員長などを兼ねた。
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