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1937年に北京で成立した政府 ウィキペディアから
中華民国臨時政府(ちゅうかみんこくりんじせいふ)は、1937年12月14日から1940年3月30日まで存在した中華民国の臨時政府。
北京で成立し、当時日本占領下にあった河北省、山東省、河南省、山西省の華北四省、北京市および天津市、青島市といった地区を統治した[1]。1940年に汪兆銘政権に吸収合併されたが、華北政務委員会へと改編され終戦まで統治を続けた[1]。
1937年7月に盧溝橋事件が勃発し、7月25日の郎坊事件と26日の広安門事件で中国29軍が日本軍を攻撃すると、28日、日本は北支総攻撃を決定し、7月29日北京は陥落した[2]。当時の北京市民によれば、北京入りした日本軍の規律は悪くなく、殺人もせず、店は閉められていたが店に押し入るようなこともなく、日本兵は外で弁当箱を持って食べていたという[3]。
日本軍は平津治安維持委員会を設置し占領統治を開始した[2]。12月14日に湯爾和を首脳とする中華民国臨時政府を宣言した[2]。1935年に成立していた冀東防共自治政府もこの臨時政府に合流した。
日本政府は1938年1月、「国民政府を相手とせず」声明を発表して臨時政府に期待をかけた。1938年5月に北支那開発株式会社を成立させ、 日本は北京で政治、軍事、文化、経済体制をほぼ確立した[2][4]。独自の通貨として中国聯合準備銀行券(聯銀券)を発行し、華北自治軍という軍事組織を保有していた。
1940年3月に南京で汪兆銘が南京国民政府を樹立すると、臨時政府は吸収合併された[1]。その後は華北政務委員会へと改編され、臨時政府の統治機構を継承して終戦まで続いた[1]。
中華民国臨時政府の最高指導部は、議政委員会委員長の湯爾和、行政委員会委員長の王克敏、司法委員会委員長の董康による三権分立体制となっていた。しかし、行政部門を掌握する行政委員会の権限は幅広く、事実上の最高指導者と見なされたのは王であった。臨時政府の構成員は、元北京政府の官僚が多数を占めていた。
下記は1937年12月14日の創設時のものである。なお、江朝宗は王克敏と対立したため、翌年1月5日に早くも北京特別市市長を辞職した。また、高凌霨も1937年12月中に河北省長へ(事実上)改任された。
※任命無し
※任命無し
※任命無し
※任命無し[5]
※任命無し
4省・3特別市を管轄した。
省政府は省公署と称され下部に省長、秘書処、参事室、顧問室、民生庁、財政庁、教育庁、建設庁、警務庁が設置された。市政府には市長、参事、秘書処、社会局、財政局、教育局、工務局、衛生局、警察局が設置されていた。
なお、1940年3月30日に汪兆銘政権が成立し、臨時政府が華北政務委員会に改組された際には、その時点での4省長・3市長は全員が重任となった。
1938年1月6日に省政府公署成立(ただし、高凌霨は前月に省長就任済)。歴代省長は下記のとおり。
1938年3月5日に省政府公署成立。歴代省長は以下のとおり。
1938年4月20日に省政府公署成立(河南省自治政府を改組)。歴代省長は以下のとおり。
1938年6月21日に省政府公署成立。省長は蘇体仁。
1937年12月14日に市公署成立(北平治安維持会を改組)。歴代市長は下記のとおり。
1937年12月14日に市公署成立(天津治安維持会を改組)。歴代市長は下記のとおり。
1939年1月9日に市公署成立(青島治安維持会を改組)。市長は趙琪。
行政委員会組織大綱第6条によれば、行政委員会は「顧問」・「参議」・「諮議」を「行政委員会が行政上の実益を得るために任用」することができる、と規定している。同条の文言から判断する限り、臨時政府における何らかの実質的な権限が顧問などに付与されているとは見なしがたい。
なお、日本人顧問については別の協定(後述)により地位が取り決められており、行政委員会組織大綱が直接適用されないと考えられる。
「最高顧問」という地位を明確に規定している臨時政府法令は見当たらないが、後述するように行政委員会から俸給が支払われている点からして、行政委員会組織大綱第6条の「顧問」に該当するものと思われる。1938年(民国27年)1月20日、呉佩孚と曹汝霖の最高顧問への就任が決定された[6][7]。ただし、最高顧問の任命については、臨時政府の『政府公報』に記載が見当たらない。
曹汝霖によれば、この最高顧問の地位は「有名無実」で「仕事もなく」、行政委員会から月1,000元(円)の俸給を貰うのみであった(後に、俸給が足りないという呉佩孚の要求により月3,000元になった)という[8]。なお、北京政府時代からの因縁[9]もあって、呉と曹の両名はこの時も深刻な不仲にあった[10]。また、この頃の呉は陸宗輿と組んで紅卍字会の活動に耽っており[11]、政界での再起の意志すらうかがいがたかったという[12]。
臨時政府『政府公報』の記録によれば、1938年(民国27年)4月12日、労之常が行政委員会顧問に任命されており[13]、この地位に就いた人物としては唯一と見られる。労は北京政府で交通部次長にまでなった人物であり、後述する参議たちに比べると、官歴では明らかに格上と言える。
各種資料により下記の7人が行政委員会参議に就任したと確認できるが、池宗墨を除き臨時政府『政府公報』に参議任命関連の記述は見当たらない。また、池は特任官待遇であるが、他の参議も同様かどうかは不明となっている。
なお、参議の中で梁亜平は教育部参事[14]、林文龍は実業部参事[15]を兼任しているため、臨時政府内における参議は参事と同程度であり、また、顧問よりは格下の地位と見なされていた可能性が高い。
1938年(昭和13年)4月27日、臨時政府の政治的建設に対する協力援助を目的とする「行政法制軍事の三顧問派遣に関する政治協定」(「日支政治助成協定」とも)が日中双方により調印された[19][20]。これにより、華北(北支)の行政・法制・治安(軍事)の3部門に日本側が下記のとおり顧問を置き[21]、臨時政府を支援することになった。
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