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岳 開先(がく かいせん)は、中華民国の政治家。別号は闢疆、辟疆。南宋の英雄岳飛から26世の子孫[2](岳鍾琪(岳飛の子孫とされる清の四川提督)の7世の孫)[3]と称される。[4]
1901年(光緒27年)に日本へ留学し、陸軍士官学校第16期(留学生第3期)を卒業した[2][5][6]。1912年(民国元年)11月26日、北京政府から陸軍少将位を授与される。1915年(民国4年)10月27日、駐日本国公使館武員に任命され、長く日本に駐在することになった。1923年(民国12年)10月9日、陸軍中将に昇進した[7]。国民政府では、1933年(民国22年)から1936年(民国25年)2月まで外交部駐察哈爾省特派員の地位にあった(当時の察哈爾省政府主席は宋哲元など)[2][5][6]。
その後、岳開先は中華民国臨時政府に参加する。1938年(民国27年)1月1日、行政部参事に任命され[8]、同年10月22日には行政委員会参事となった[9]。翌1939年(民国28年)1月31日、行政委員会外務局局長に任命された[5][10]。臨時政府最末期の1940年(民国29年)3月9日には、実業部次長署理を兼務している[11][12]。
1940年(民国29年)3月30日、南京国民政府(汪兆銘政権)に臨時政府が合流し華北政務委員会に改組され、実業部も実業総署に改組された。同年5月4日、岳開先は実業総署署長代理(実業総署督弁は王蔭泰)[13]に任命される[5][14][15]。以後、華北政務委員会が改組された1943年(民国32年)11月までこの地位にあった[16]。また、1941年(民国30年)8月には、同委員会の華北河渠委員会委員にも任ぜられている[6]。
1943年11月以降の岳開先の行方は不詳である。
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