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中国の鉄道技師・建設官僚・政治家 ウィキペディアから
労 之常(ろう しじょう、1873年9月8日 – 1948年12月21日)は、中華民国の鉄道技師・建設官僚・政治家。字は遜五。鉄道技師からの叩き上げで北京政府高官(交通部次長)となった人物で、呉佩孚との繋がりから直隷派と目された。後年、短期間ながら中華民国臨時政府でも任用された。
1886年(光緒12年)頃に、労之常は天津武備学堂(北洋武備学堂)鉄路科に入学した[1]。卒業後は鉄道技師として活動し、清末は浙江鉄路局技師[3][4]などをつとめた。
1916年(民国5年)12月19日、労之常は交通部津浦鉄路管理局工務処処長に任命される。翌1917年(民国6年)3月12日には津浦鉄路管理局副局長となり、後に同局局長を一時代理している。1919年(民国8年)1月16日からは山東河務局局長に改任され、黄河流域の河川行政にも携わることになった[5]。
1922年(民国11年)5月28日、呉佩孚が中央で台頭した際に、呉から高恩洪・孫丹林らと共に抜擢され[3]、労之常は交通部次長代理(後に署理) に任命された。これと併せて魯案(山東問題)にも取り組むようになり、国際交通審査会会長、国際交通事務処処長、魯案善後交通委員会会長、統一郵権委員会委員長、魯案中日聯合委員会第二部委員を歴任し、同年12月6日には膠済鉄路の接収を担当している[5]。
1924年(民国13年)、労之常は京漢鉄路局長となるが、同年中に北京政変が発生して呉佩孚が一時失脚したため、労も各職を辞任した[3][6][7]。呉復権後の1926年(民国15年)7月22日、労は交通部次長兼京漢鉄路管理局局長に返り咲いたが[5]、中国国民党の北伐に敗北して呉が再び失脚すると、労もやはり下野した[3][6]。
その後の労之常は政界に復帰せず、基本的には北京や天津で閑居していた。ただ1936年(民国25年)5月には、冀察政務委員会交通委員会委員として一時的に政界復帰している[4]。1938年(民国27年)3月5日、中華民国臨時政府で新たに成立した山東省政府公署(省長:馬良)において、労は総務庁庁長に任命され[8]、同月26日には総務庁が廃止されたため秘書長に転じた[9]。しかし山東省政府からは短期間で離れ、4月12日、実務的な権限は無い行政委員会顧問に転じた[10]。これら以外では目立った政治活動が見受けられず、南京国民政府(汪兆銘政権)華北政務委員会には労は参与しなかった。
日本敗戦後、労之常は漢奸に指名されることは無かったと見られる。北京で閑居し続け、引退した旧政界重鎮で構成される「耆英会」に参加したという。1948年(民国37年)12月21日、北京で病没。享年76(満75歳)[2]。
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