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日本に留学し、陸軍士官学校と陸軍戸山学校を卒業した。辛亥革命には革命派として参加したと見られる。1912年(民国元年)、浙江聯合軍総司令副官兼江蘇都督府参謀となり、さらに第13旅南京留守部司令をつとめた[2]。
1912年2月8日、楊廷溥は南京臨時政府において陸軍部軍衡局科長に任命された。同年9月23日、北京政府で陸軍少将の位階を授与される[4]。1913年(民国2年)、陸軍部高等顧問に就任し[2]、1916年(民国5年)1月20日、四川暫編陸軍第1師参謀長に改任された。同年12月27日、陸軍中将銜を追加される[4]。
1922年(民国11年)、将軍府参軍に任命され、翌1923年に陸軍中将位を授与された。1924年(民国13年)11月18日、陸軍部秘書に移っている[4]。1924年(民国13年)、清室整理善後委員会委員に任命された。翌1925年(民国14年)には日本陸軍大演習参観のために訪日し、四川軍務督弁公署総参議にも任命されている。1926年(民国15年)に京畿衛戍総司令部参議となった[2]。
1928年(民国17年)、楊廷溥は国民政府へ易幟し、閻錫山率いる国民革命軍第3集団軍[5]で参議に就任している。翌1929年(民国18年)、平津衛戍司令部参謀長(司令:閻錫山)に任命された[2]。
1932年(民国21年)7月16日、駐日本国陸軍武官に任命され、1934年(民国23年)3月16日まで在任した。帰国後の5月15日、国民政府中央で参謀本部高級参謀に任命される。1936年(民国25年)2月4日、陸軍少将位を授与された。翌1937年(民国26年)7月6日、高級参謀を辞職している[4]。
1937年12月14日に王克敏が中華民国臨時政府を樹立すると、楊廷溥もこれに参与した。なお、臨時政府以降での楊は文官に転じている。
1938年(民国27年)1月1日、楊廷溥は行政部外務局長(行政部長:王克敏)に任命され[6][7]、9月29日、建設総署副署長(署長:殷同)を兼任した[8][9]。翌1939年(民国28年)1月30日、楊は長蘆塩務管理局局長を兼務する一方で[10][11]、行政委員会外務局局長の兼務を解除されている[12]。1940年(民国29年)2月13日、建設総署副署長の兼務を解除され[13]、長蘆塩務管理局局長専任となった。
1940年3月30日、南京国民政府(汪兆銘政権)に臨時政府が合流し、華北政務委員会に改組された際に、楊廷溥は長蘆塩務管理局局長に重任している。翌1941年(民国30年)1月21日、楊は局長を免ぜられた[14][15]。
以後、楊廷溥の行方は不詳である。
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