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中田 瑞穂(なかた みずほ、1893年(明治26年)4月24日 - 1975年(昭和50年)8月18日)は、日本の脳神経外科医・俳人。新潟大学名誉教授。俳号はみづほ、瑞翁、穭翁。島根県津和野町生まれ。
日本における脳神経外科学の権威で、その数々の功績から「日本脳外科の父」とも呼ばれる[1]。
日本初の脳神経外科学講座を新潟大学に設立し、新潟大学脳研究所の設立と発展に貢献[2]した。また、てんかんの治療法として現在も行われている大脳半球切除手術に日本で初めて成功した[1]ことでも知られる。ホトトギス派の俳人。主著に『脳手術』、『脳腫瘍』等。
旧制六高を経て東京帝国大学医科大学を卒業後直ちに同大学の近藤次繁教授の外科教室に入局し、4年間の勤務の後新潟医科大学の外科教室に助教授として赴任した[3]。
新潟医科大学に赴任した当初の外科は外表と消化器を担当し、脳疾患を扱っていなかった[1]。1924年から1927年のドイツ留学の際にEugen Enderlenの外科手術を見学し、同氏を後述のクッシングと共に「心の師」であると著書において述べている[4]。ただし、他に見学した脳神経外科手術は「到底信頼の置けないもの」と述べており、1度目の視察ではあくまで外科一般の領域における影響を受けた。
後に日本で脳神経外科を発足させるきっかけになったのは、2度目の欧米視察であるといえる。1936年に米国イェール大学で脳神経外科医のハーヴェイ・ウィリアムス・クッシング(クッシング症候群の発見者)やウォルター・ダンディの手術を見学したことにより、クッシングの緻密な手術態度に感銘を受け、その手術法に共感を覚えた[1]。クッシングの手術見学の際は、長時間の手術のために途中で次々と見学者が帰っていく中、最後の1人になっても熱心に見学を続け、クッシングはその姿を見て「肩につかまってもよいからよく見なさい」と述べた[5]。
帰国後、1938年に新潟神経学研究会を発足し[1]、第1回では「てんかんの外科的療法」と題した講演を行った[2](なお、この研究会には後の京都大学総長である平澤興教授も参加している)。1947年に「脳手術」を、その2年後に「脳腫瘍」を出版した[1]。同年、昭和天皇が新潟医科大学を訪問(昭和天皇の戦後巡幸)した際に、脳外科について説明を行った[6]。
1948年、第1回日本脳外科研究会(現在の日本脳神経外科学会)が新潟医科大学で開催された際[1]、「前頭葉切除術乃至前頭葉白質切離術の効果の限界に就て」という題で講演を行っている[5](前頭葉切除術はロボトミーを指す)。1953年に第二外科学講座として脳神経外科学を独立させた[7]。
1953年4月30日にワーレンベルグ症候群を発症[8]。自身の症状を観察記として著し、病巣分布を推定した論文を発表した[8]。神経内科学者の豊倉康夫(1923-2003)はこれを「未だかつて前例のない記録」と評価し[3]、この分析をさらに解析した論文を発表している[2]。
1955年にてんかんの治療法である大脳半球切除手術に日本で初めて成功した。
1956年に新潟大学医学部教授を退官する際、当時の医学部長であった伊藤辰治(1904-1985 神経病理学者)によって「新潟大学脳研究室」(現在の新潟大学脳研究所)が設立され、その室長となる[1]。伊藤は病理学教室教授として、中田による脳手術の全症例の病理診断を担当していた[2]。
研究室は設立の翌年に文部省により正式に認可され「新潟大学医学部脳外科研究施設」となる[1]。退官後も施設長として脳神経疾患に関する研究を続け、1959年に退職[1]。生涯で著した論文数は423に及ぶ[7]。
代表的な句(制作年順)[3]
戦前の日本の脳神経外科手術は一般外科の教授により散発的に行われていた[11]中で、専門分野としての脳神経外科の必要性にいち早く気づき、1948年の日本初の脳外科専門書である「脳腫瘍」の出版、1953年の日本初の脳神経外科の設立[7]、などを通して脳神経外科の黎明期をリードした。これらの功績から、脳神経外科学におけるパイオニア[11]・脳科学研究の源流[3]として現在に至るまで高く評価されている。
(注:診療科としての脳神経外科は1951年に東京大学病院が設置しているが、東京大学において脳神経外科学講座が設置されたのはその11年後の1963年である[11]。)
また、当時の医学会は東京大学を頂点としていた中で、新潟の地より発信を行った[3]という事実もその業績を語るうえで重要である。1947年に母校の東京帝国大学より教授としての招聘があったにも関わらずそれを断り、新潟で日本の脳研究を発展させた[1]。当時の脳神経外科を志す医師は必ず新潟大学を訪れ手術を見学したことから、「新潟詣で」という言葉も作られた[1][3]。高橋均(新潟大学名誉教授)は、「中田先生は新潟大学を脳研究の聖地ととなる基礎を作って出さった方」であると述べている[1]。
1967年に日本脳神経外科学会の第1回認定審査会が行われた際、別格として認定証が贈呈された[11]。また、1994年11月9日に出身地の津和野町に「日本脳外科の父 中田瑞穂先生 生誕の地」の碑が建立された[12]。
現在でも新潟大学では、現在優れた若手研究者に対して中田の名を冠した「中田瑞穂若手研究奨励賞」を授与している。
1938年に中田が前頭葉切除術(ロボトミー)を開始したということから、しばしばロボトミーの推進者であったと捉えられる。
確かに中田が前頭葉切除術を行ったことは事実である[13]が、1949年に出版された著書『脳手術』の「精神病に対する脳手術」には「(前頭葉切除術が)どの程度まで精神病の治療として発展し得るものか、尚疑問である」[13]と述べており、その適応は「絶無ではないかもしれない」[13]が、具体的には「精神病の不治、難治と思わるる不幸な例、(中略)、家族や社会に不安を感ぜしむる状態のものを、内科的に如何ともし難いやうな場合(中略)に適応となると思ふ」というように、あくまで他の治療法で効果が得られなかった場合の場合の最後の手段であるとしている[13]。このことから、前頭葉切除術の可能性自体は認めているが、その遂行には慎重な態度をとっていたことがうかがえる。
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