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中村電気軌道株式会社(中村電氣軌道株式會社、なかむらでんききどう)は、かつて愛知県名古屋市において路面電車・バスを運営していた企業(株式会社)である。1936年(昭和11年)に名古屋市電気局(後の名古屋市交通局)に事業を譲渡して解散した。
運営していた電車は「中村電車」、バスは「中村バス」と呼ばれた[2]。
1913年(大正2年)10月、名古屋市に隣接した中村(現・名古屋市中村区の一部)における開発事業を開始した会社の名古屋土地[3][4]が、軌道部を設立して路面電車事業に乗り出したことが創始である。最初の路線は、地上駅時代の名古屋駅を跨ぐためにかけられた明治橋(1937年〈昭和12年〉の高架化時に撤去)の西側を起点とし、太閤通を西進して中村公園の入口に至るものであった。鉄道事業者が不動産事業を開始した例は、1910年(明治43年)開業の箕面有馬電気軌道(箕有電車、阪急電鉄の前身)を初として徐々に現れ始めていたが、逆に不動産会社が鉄道事業を行う事例は、現在では紀州鉄道や山万などが存在するが、当時としては珍しいものであった。
1926年(大正15年)6月に名古屋土地から分社化された中村電気軌道の運営に代わり、そのころ後に名古屋鉄道の社長となる藍川清成が当初は取締役、続いて社長に就任した[5]。この年の電車の乗客は250万9845人であったが次第に減少し、1929年(昭和4年)の乗客は158万2957人となった[2]。乗客減少の要因は、駅前を発着せず不便であることと、名古屋駅前を発着し中村遊廓へ向かう他社のバスが1923年(大正12年)9月に運行を開始したためである[2][6]。このバスに対抗して中村電気軌道は1929年1月から名古屋駅前・中村公園間で兼営バスの運転を開始した[2][6]が、名古屋市営バスが1933年(昭和8年)7月に那古野町・中村公園間に路線を新設したこともあり収益は少なかった[6]。また、電車は名古屋市電より運賃が高く評判が悪かった。
1936年(昭和11年)5月、1935年(昭和10年)から進められていた市内民営交通機関の統合によって中村電気軌道は名古屋市に買収され、電車事業・バス事業は名古屋市電気局(名古屋市交通局の前身)に移管された。買収価格は10万1300円[2][7]。買収前の1年間の乗客は、電車が36万8290人、バスが126万9436人であった[2]。
中村電気軌道を買収した路面電車は中村線とされ、当初孤立路線であったが、東側は名古屋駅高架化に伴い笹島町まで延長され、既設の名古屋市電の路線に接続した。西側も豊国神社の大鳥居をくぐって中村公園に向かっていた区間を廃止して稲葉地町まで伸延されている。その後、中村線は1972年(昭和47年)2月29日まで運行を続けている。
年度 | 乗客(人) | 営業収入(円) | 営業費(円) | 益金(円) | その他益金(円) | その他損金(円) | 支払利子(円) |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1913 | 44,726 | 1,103 | 1,490 | ▲ 387 | 土地建物4,536利子9,953 | 家屋保存費13,573 | 1,565 |
1914 | 217,275 | 6,939 | 7,857 | ▲ 918 | 土地家屋11,352 | 土地家屋13,052 | |
1915 | 177,342 | 5,651 | 6,873 | ▲ 1,222 | 土地8,320 | 土地10,139 | |
1916 | 198,885 | 6,104 | 6,151 | ▲ 47 | 29,640 | 21,185 | |
1917 | 266,461 | 6,271 | 7,459 | ▲ 1,188 | 土地12,807 | 11,125 | |
1918 | 269,360 | 6,927 | 9,932 | ▲ 3,005 | 13,954 | 13,005 | |
1919 | 567,181 | 10,277 | 10,438 | ▲ 161 | 103,743 | 22,685 | |
1920 | 549,097 | 14,804 | 19,086 | ▲ 4,282 | 814,569 | 595,347 | |
1921 | 573,889 | 17,862 | 13,657 | 4,205 | |||
1922 | 1,045,019 | 24,279 | 13,687 | 10,592 | |||
1923 | 3,116,965 | 68,603 | 22,715 | 45,888 | 643,604 | 185,705 | |
1924 | 3,997,743 | 85,038 | 35,156 | 49,882 | 472,880、利子78,212 | 106,436 | 236 |
1925 | 3,199,641 | 82,440 | 38,687 | 43,753 | 359,872、雑益152,879 | 124,248 | 18,400 |
1926 | 2,509,845 | 106,698 | 49,039 | 57,659 | 104 | ||
1927 | 2,381,274 | 96,113 | 47,128 | 48,985 | |||
1928 | 2,113,661 | 84,985 | 61,253 | 23,732 | |||
1929 | 2,172,743 | 77,255 | 60,913 | 16,342 | 自動車6,494 | 232 | |
1930 | 1,237,387 | 47,469 | 48,330 | ▲ 861 | 自動車23,734 | 償却金13,700 | 372 |
1931 | 942,762 | 36,234 | 43,704 | ▲ 7,470 | 自動車12,115 | 償却金3,100 | 592 |
1932 | 779,509 | 29,954 | 38,033 | ▲ 8,079 | 自動車27,555 | 償却金9,500 | 545 |
1933 | 621,630 | 24,070 | 39,759 | ▲ 15,689 | 自動車26,987 | 339 | |
1934 | 467,602 | 19,088 | 36,569 | ▲ 17,481 | 自動車21,573 | 1,026 | |
1935 | 368,290 | 14,309 | 31,957 | ▲ 17,648 | 自動車21,458 | 償却金2,500 | 746 |
1936 | 124,843 | 5,798 | 16,354 | ▲ 10,556 | 自動車21,209 | 償却金1,900 | 993 |
電車は、定員34人の木造単車4両(1 - 4号)、定員42人の木造単車4両(7 - 10号)、定員58人の木造付随ボギー車2両(5・6号)があった。1 - 4号は1913年、5・6号は1914年、7 - 10号は1925年に登場した。いずれも整備状況が悪く稼働率は低かったといわれ、名古屋市に移管された後の1936年6月に廃車の届出がなされている。
中村電気軌道のバス路線は、1929年(昭和4年)1月の事業開始時に新設された名古屋駅前 - 中村公園間 (4.0km) のみであった。1936年(昭和11年)5月に市営化された際、車両10台が名古屋市に引き継がれた[7]。これとは別に、後日バス2台を名古屋市に譲渡している[7]。
名古屋土地や中村電気軌道には、複数の未完成路線(未成線)や計画路線がある。
1926年(大正15年)10月27日、8人の発起人により、地下鉄道の敷設が出願された。計画路線は、熱田駅を起点とし現在の伏見通(国道19号)の地下を北上、古渡町から本町通に入り、桜通に至るとそこで西に曲がり、そのまま名古屋駅前へ至る、6.7kmルートであった。1926年11月13日には、桜通を東へ進み覚王山へ至る、4.8kmの路線も追加申請された。
発起人には加藤重三郎元名古屋市長や中村電気軌道の社長・役員が名を連ねた。この計画は、元市長や有力者などの賛同を得て中村電気軌道が名古屋市内乗り入れを目論んだもので、地下鉄道建設にあたっては別会社を新設する予定であった。中村電気軌道は名古屋市内に乗り入れる路線の建設を何度か申請しているがその都度却下されており、この地下鉄道の計画もまた、莫大な建設費がかかり利益を上げることが困難とされたため1931年(昭和6年)12月23日に却下された。
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