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『旅行記』(りょこうき、阿: تحفة النظار في غرائب الأمصار وعجائب الأسفار tuḥfat al-naẓār fī ġarāʾib al-ʾamṣār wa-ʿaǧāʾib al-ʾasfār, 『諸都市の新奇さと旅の驚異に関する観察者たちへの贈り物』)は、イブン・バットゥータによる書物。通称リフラ(Rihla)と呼ばれる。日本では『大旅行記』、『三大陸周遊記』、『都市の不思議と旅の驚異を見る者への贈り物』などの呼称もある。14世紀の世界を知るうえで資料的価値があると評価されている。
約30年をかけて旅を行ったイブン・バットゥータが、当時のマリーン朝の君主の命令を受けて、イブン・ジュザイイのもとで口述を行い、1355年に完成した。マグリブ人としての視点からさまざまな事物について語っており、19世紀にヨーロッパにも紹介されたのちに各国語に翻訳されて広く読まれている。
イブン・バットゥータは21歳の時にメッカ巡礼に出発した。当初は巡礼と学究が目的だったが、旅先でのスーフィーとの出会いなどがきっかけとなり、メッカへ到着したのちも旅行を続ける。故郷を出発した時は一人だったが、途中で巡礼団と一緒になったり、政府の使節として旅行するなど、彼の旅の形態は多様である。エジプトからシリアのダマスカスを経てメッカに滞在したのちは、イラク、イラン、アラビア半島、コンスタンティノープル、ジョチ・ウルス、トゥグルク朝のデリー、マルディヴ、スマトラ、泉州、大都、ファース、グラナダ、サハラ砂漠などを訪れている。ただし、中国をはじめいくつかの土地に関しては、実際には訪れていないという考証もある。
イブン・バットゥータは、以下のような事物について語っている。特にイスラームの境域地帯(スグール)を広く遍歴した。
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当時のファースの人々は、イブン・バットゥータの話を嘘だと見なしたため、旅行記の内容は引用されることが少なかった。また、イスラームに反する事物の記述があるため、一種の禁書と見なされていた。17世紀のオスマン帝国において、バイルーニーが抄本を編纂すると、広く読まれるようになった。
18世紀から19世紀にかけてヨーロッパの学者たちにも存在が知られ、マルコ・ポーロとの比較などで評価され、アラビア語の要約本が翻訳されるようになる。フランス語による完本の校訂本と逐語訳が行われ、これをもとに各国語で翻訳が行われた。日本で最初に紹介したのは前嶋信次で1954年に抄訳版を発表した[3]。
14世紀の巡礼や交易のルート、イスラームの影響などについての資料的価値は高く評価されている。特にインドのトゥグルク朝には1334-42年の8年間役人として滞在し、同時代史料として有用とされる。一方、記述の信憑性を巡っては疑問点や矛盾も指摘されている。旅程の順序や日程に混乱が見られ、イブン・ジュバイルをはじめとする他人の著作からの引用もある。また、特にブルガールや中国についての記述は伝聞の可能性が高いとされる[4]。
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