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一〇〇式機関短銃(ひゃくしききかんたんじゅう)は、第二次世界大戦に実戦投入された日本軍で唯一制式化された短機関銃である。資料等によっては「百式」、また制式名の「機関短銃」ではなく「短機関銃」と誤記されている場合もある。
一〇〇式機関短銃(後期型) | |
一〇〇式機関短銃 | |
---|---|
種類 | 短機関銃 |
製造国 | 日本 |
設計・製造 | 陸軍技術本部・中央工業・名古屋造兵廠鳥居松製造所 |
年代 | 第二次世界大戦 |
仕様 | |
種別 | 短機関銃 |
口径 | 8mm |
銃身長 | 230mm |
ライフリング | 6条右転 |
使用弾薬 | 8mm南部弾(十四年式拳銃実包) |
装弾数 | 30発(湾曲箱形弾倉) |
作動方式 | オープンボルト、シンプルブローバック方式 |
全長 | 872mm(着剣時 1260mm) |
重量 |
3.7 kg(前期型、空弾倉・銃剣無し状態) 4.2 kg(前期型、装填弾倉・銃剣無し状態) 3.8 kg(後期型、空弾倉・銃剣無し状態) 4.4 kg(後期型、装填弾倉・銃剣無し状態) |
発射速度 |
450発/分(前期型) 700〜800発/分(後期型) |
銃口初速 | 334m/秒 |
有効射程 | 150m |
歴史 | |
製造期間 | 1939年 - 1945年 |
配備期間 | 1939年 - 1945年 |
配備先 | 旧日本陸軍 |
関連戦争・紛争 | 支那事変、第二次世界大戦、国共内戦、朝鮮戦争、第一次インドシナ戦争、ベトナム戦争 |
バリエーション |
試製三型機関短銃(原型) 改修三型甲機関短銃(初期型) 改修三型乙機関短銃(初期型) 一〇〇式機関短銃(前期型) 一〇〇式機関短銃(落下傘部隊用) 一〇〇式機関短銃(後期型) |
製造数 | 約10,000挺(従来説では約24,000挺~27,000挺) |
第一次世界大戦後の大正9年(1920年)7月の陸軍技術本部兵器研究方針によって、自動小銃開発の予備研究として、自働短銃(当時の日本での短機関銃の呼び方)の研究にも着手するようになり、外国製短機関銃(ドイツ製MP18、アメリカ製トンプソンなど)を輸入し、分解、研究を行った。
大正9年(1920年)頃、弾薬選定の予備研究が行われ、6.5mm弾(.25ACP弾)・7mm南部弾・7.7mm弾(.32ACP弾)が試され[1]、いずれも不満足だったので、最終的に十四年式拳銃と同じ8mm南部弾(8×22mm南部弾)を使用することに決定した(※弾薬の選定がいつ頃行われたのかは正確には不明。ただ、使用弾薬を決めなければ、銃器の設計に取り掛かれないので、1920年代の前半に行われたと考えられる)。
大正12年(1923年)に、陸軍造兵廠火工廠東京工廠にて試製自働短銃の設計が開始された。
昭和2年(1927年)に、「試製自働短銃 1927年型」(Tokyo Arsenal Model 1927)が完成した。全長690mm、重量3.2kg、8×22mm南部弾、50発ドラムマガジン(メタルテープ給弾)または30発ボックスマガジン(スプリング給弾)、ブローバック方式で、エアバッファー(空気圧式ボルト緩衝装置)[2]の欠陥から発射速度が1200発/分と高過ぎる(後に、300~600発/分に改良された)、命中精度が悪い、構造が複雑で脆弱、などの問題点があった。
翌昭和3年(1928年)には、全く別設計の「試製自働短銃 1928年型」(Tokyo Arsenal Model 1928)が完成している。全長800mm、重量3.3kg、8×22mm南部弾、18発マガジン、ブローバック方式。セレクターにより単発と連発(2点バースト)の切り替え可。
昭和5年(1930年)に、試製自働短銃 1927年型と1928年型は、シグ-ベルグマン(SIG-Bergmann、スイスのシグ社によるMP18のライセンスコピー品)、ラハティ(Lahti Model 1922)、トンプソン(Thompson)、など、他のいくつかの短機関銃との比較試験を受け、結果、両者とも不採用となった。
その後、翌昭和6年(1931年)の満州事変の勃発により、予算上の制約と生産優先順位の点から開発は停滞した。
中国軍は海外の雑多な短機関銃を輸入して使用しており、日本軍はそれらを大量に鹵獲し、機関短銃開発の参考資料とした。後のノモンハン事件でも同様であった。
機関短銃の本格的な開発が始まったのは昭和10年(1935年)からで、昭和10年(1935年)(※正確には昭和11年(1936年)の陸軍技術本部による新型機関短銃審査までには開発されていたのであって、実際の開発開始年や開発期間は不明)に、南部銃製造所(翌年、中央工業に改組)によって、「南部式機関短銃一号」と「南部式機関短銃二号」が試作された。南部銃製造所ではブローバック方式の南部式教練軽機関銃も開発している。
さらに、南部式機関短銃を基に、陸軍技術本部によって、昭和11年(1936年)に「試製一型機関短銃」と「試製二型機関短銃」が試作され、昭和12年(1937年)の間、試験された。試製一型機関短銃は実射試験を通じて銃身と弾倉の問題が判明したので、さらに改良を加えられて、試製三型機関短銃に発展することになる。
この試製一型機関短銃が一〇〇式機関短銃に繋がる系統の祖となった。試製二型機関短銃の系統は制式採用されず、少数が試作されたのみであった。
南部式一号・二号、試製一型・二型の、これら試作銃は各々が複数挺作られ、個々に微妙な差異があった。その中には弾薬規格の異なるヴァリエーションもあった。三八式実包の弾丸と薬莢を短縮し、装薬を減装した、「試製九五式実包」(6.5x30mm)と呼ばれる短小弾(ドイツのクルツ弾に相当)を使用する物もあった(南部式一号と試製一型に採用)。試製九五式実包は、8mm南部弾と比較して、さしたる侵徹効力の違いや利点が無かったためか[3]、制式採用されなかった。
注目されるのは、これらの銃の試験を行ったのは陸軍騎兵学校であることで、当初は歩兵用の火器として考えられていたわけではなかった。この当時は騎兵といってもすでに乗馬騎兵はその主流ではなく、師団付属の騎兵連隊は師団捜索隊として機械化偵察部隊となりつつある時期にあたっており、こうした機械化偵察部隊の運用に適する火器として三八式騎銃ないし四四式騎銃を補完するものとされていた[4]。
50発弾倉を備えた試製一型は昭和13年9月下旬から支那駐屯歩兵第二連隊に対して6丁が「突撃及び陣内の戦闘に於いて不意の戦況に対処し特に突撃中に敵を制圧する必要がある場合の価値を判定す」る為に試験配備され、運用した部隊からは敵陣地占領後に行われた敵の逆襲に対して試製機関短銃の「腰だめ射撃」で有効にこれを阻止したとの戦例が報告されている。「戦況上使用する機会は比較的多からざりしも実用したる場合には相当の効果を収めたり」としているが、その一方で弾薬の配当(分隊に1丁、携帯弾薬200発)が少なかった為に大なる成果があげられなかったとされた。射撃のデモンストレーションに参加した各種兵科の代表者からは機関短銃は最も軽便にして連発の威力が大きい為、自衛用に装備することへの熱烈なる希望があったと近接戦闘兵器研究委員会中支派遣者は報告書に記している。[5]
MP18(SIG Bergmann 1920)やハーネルMP28、シュタイヤーMP34などの、輸入したヨーロッパ製短機関銃を、日本陸軍では総称として、「ベルグマン自動短銃」などと呼んだ。また、日本海軍は総計6,000挺ほど輸入し、「ベ式自動拳銃」(ベ式はベルグマン式の意)、「ス式自動拳銃」(ス式はス(シュ)タイヤー式の意)として(※日本海軍では短機関銃のことを「自動拳銃」と呼称した)、海軍陸戦隊などで使用していた。なお、これらの多くは口径7.63mmモーゼル弾仕様であり、新たに着剣装置も追加されていた。
当初騎兵科の開発ということで予算も開発資源も十分でなかったが、落下傘部隊が開発に参入したこと、および昭和12年(1937年)に支那事変が始まり、事変臨時軍事費の流入を得たことから予算上の制約は無くなり、昭和14年(1939年)に、後の一〇〇式機関短銃の直接の原型となる「試製三型機関短銃」が完成した。
ベ式機関短銃の強い影響を受け、木製の銃床銃把一体型で、30発入りダブルカラム弾倉を機関部左横から装填する方式を採用、また使用する弾薬がテーパーのきつい8mm南部弾であったため、弾倉はカーブを描いた形状となった。
その後、「改修三型甲機関短銃」・「改修三型乙機関短銃」を経て、二脚、伸縮式管状着剣装置、タンジェントサイトの付加などの小改良が施され、昭和16年(1941年)に「一〇〇式機関短銃」として準制式採用された。改修三型には消炎制退器は付いていなかった。
一〇〇式機関短銃は照準安定のための二脚、最大1500mの遠距離まで狙える照尺、銃剣の着剣装置など、原型となったドイツ製短機関銃とは異なる設計思想に基いていた。これらは騎兵校の要望を採り入れた結果であり、挺身兵(落下傘部隊)の火器としても有用なものだった。銃剣には三十年式銃剣か、後に二式銃剣(二式小銃用に三十年式銃剣の刀身を短縮した銃剣)を装備した。また、銃床左側面のD型の金具を90度回転させることにより、銃身機関部と銃床とを簡単に分解する事ができた。分解した銃身機関部と銃床はまとめると70cmほどとコンパクトになり、空挺降下の際に銃袋に詰めて携行した。
また、チェコスロバキアのZK-383がほぼ同様な構成をとっていたほか、MP34やイギリスのランチェスター、スイスのSIG MKMSとイタリアのベレッタ Modello 1938Aの戦前の生産型、ハンガリーの39Mおよび43Mも着剣装置を備えていた[6]。
分隊長に短機関銃を装備させて歩兵分隊の近接格闘戦時の白兵力の向上に資するという用法は、当時はドイツ及びフィンランドのみで採用されていたもので、米英はドイツの用法に触れるまで軍用銃としての短機関銃は乗車兵員や航空兵の自衛火器程度にしか考えていなかった。ソ連もまた開戦後に兵士の訓練時間短縮に窮したことから射撃訓練の簡単な短機関銃を多用しており、第二次大戦当時は各国で短機関銃の用法は異なっていた。なお、意図された設計であるかは不明であるが、九六式軽機関銃や九九式軽機関銃の着剣装置においては、機関銃への銃剣装着は連射時の銃口の安定を図るバランサーの役割を期待されたとみる研究者もおり、2000年代初頭に同説を採る須川薫雄ら米国在住の研究グループが行った一〇〇式機関短銃の射撃実験でも、三十年式銃剣の着剣状態にて良好な射撃成績を収めている[7]。
本銃にセレクターは無く、フルオート射撃のみであり、バースト射撃は指切りで行う。銃腔にはクロムメッキ加工が施されていた。弾倉は1銃につき8個を、4個入り弾倉帯2つで携帯する[8]。その他の雑嚢も流用された。弾倉重量は空で240g、30発装填で540gである。
作動方式は、バッファーにコイルスプリングを採用し、オープンボルト、シンプルブローバック方式である。銃身や銃身被筒は固定式で動かない。
前期型の生産が中央工業でわずかに行われた他は、後期型の生産が名古屋造兵廠鳥居松製造所で昭和19年5月から毎月1,000挺のペースで行われた。総生産数は約10,000挺。その内のほとんどの約9,000挺を後期型が占める[9]。
負革(スリング)は、幅約2.8cm、長さ最短約58cm、最大約102cm。大別して前期型、後期型が存在し、前期型は、牛革製(茶褐色の防水塗装)であり、銀色ニッケル鍍金が施された茄子環で本体と接続する。尾錠も銀色ニッケル鍍金が施され、長さを素早く調整できる機構で爪はない。革の端部は、茶褐色のスナップボタンで固定(茄子環は外せない)されていた。末期型は、帆布(キャンバス)製であり、機関銃負革に見られる黒染め茄子環が流用され、端部は、糸止めとなっていた。
一〇〇式機関短銃は数種類ある。大きく前期型と後期型に分類される。下記では改修三型は一〇〇式に含まれない物として記述する。制式化前の改修三型を、一〇〇式の初期型もしくは前期型として扱う分類もある。
一〇〇式の後期型は「一〇〇式改機関短銃」または「一〇〇式機関短銃改」と呼ばれることもあるが正式名称ではない。
昭和17年(1942年)に生産された前期型は、銃床がワンピース型であった。銃身下に伸縮機能を省いた固定式の管状着剣装置が付いていた。銃口に大型の脱着式消炎制退器が付いていた。前期型の消炎制退器は左右上方に溝があり、銃口の跳ね上がりを抑えていた。改修三型に付いていた二脚はなくなった。トリガーガード前方の前床下部に安全装置が付いていた。左側面トリガー上方の金具を90度回して銃身機関部と銃床を上下に分解することができた。以後の生産型も分解機能を持つ。
同年に海軍落下傘部隊用として、前期型から改造された一〇〇式機関短銃特型は、銃床の右側面グリップ基部に蝶番を付け、落下時に邪魔にならないように、グリップごとストックを右側面に折りたたむことができた。銃床の左側面には、ネジで固定する、前床と銃床の連結用金具があった。この構造は試製一式小銃(テラ銃)と同じであった。しかし実際には強度に問題があったと思われる。
昭和19年(1944年)より生産された後期型は、緩速機構(レートリデューサー)を省略し、管状着剣装置を廃止し、1500mタンジェントサイトを廃止し、照準装置(ピープサイト100m固定、その上のV型サイト200m固定の2段階式に変更)など各部を簡略化、消炎制退器は固定式になった。後期型の消炎制退器は左側上方が溝ではなく穴になり、右側上方のみ溝であった。これは銃口が右にぶれる現象を改善した物であった。着剣ラグ(突起)が直接、銃身被筒に付けられ、銃身先端を二式銃剣の銃身通し穴に挿すように変更された。銃床は前期型よりやや短くなり、上下二分割型であった。弾倉止めや安全装置の使い勝手が改善された。一〇〇式の前期型と後期型では弾倉の互換性が無かった。製造方法の一部に電気溶接加工を取り入れた。これらにより発射速度と生産効率が向上した。後期型の最初と最期では、仕上がりが全く違っていた(末期には床尾板が木製になるなど悪くなる方向に)。しかし本銃の製造は基本的に機械切削加工によるので簡略化は根本的な生産性向上にはならなかった。
長所
短所
日本陸軍期待の一〇〇式機関短銃であったが、前線で使用されることは少なかった。原因として製作した本銃が前線に届かなかったこと(南方に輸送中、輸送船などが撃沈されるなど)、さらに資源の不足などが重なったためである。特に弾薬の生産には困難があり、小銃弾や機銃弾ですでに不足しているところに大量の拳銃弾の増産を行うことは不可能であった。そのため一部の砲兵・騎兵将校の自衛用火器、もしくは挺進部隊用として使用されるにとどまった。しかし一〇〇式機関短銃が華々しく活躍した場面もあった。
1942年2月のパレンバン空挺作戦において第1挺進団が一〇〇式機関短銃を使用したとされていたが、これは間違いである。この時には空挺隊員は小銃や機関短銃を携行せず、三八式騎銃を物料箱で別に投下した[10]。
1942年後半にはソロモン諸島の部隊へ少数の一〇〇式機関短銃が試験配備された。その後ガダルカナル島にも輸送されているが、極めて少数が到着した他は全て輸送中に失われている。また、ガダルカナル島で本銃を連合軍が鹵獲している。
ビルマの戦いの後期(1944年頃)には日本軍の増援部隊が装備していた少数の改修三型機関短銃(二脚とタンジェントサイトを備えたもの)が英軍によって鹵獲されている。[11]
1944年12月、第2挺進団(秘匿名「高千穂部隊」)が「テ号作戦」において使用している。
1945年の沖縄戦の「義号作戦」では、一〇〇式機関短銃を携帯した義烈空挺隊は米軍占領下の読谷飛行場に強行着陸しアメリカ軍に損害を与えている。
そのほかにも僅かな数ではあるがニューギニアやフィリピンなど太平洋諸島の地上部隊に本銃が実戦配備され連合軍が少数を捕獲している。(ニューギニアの歩兵第54連隊には中隊あたり3丁が配備されたなどの例もある)[11]
終戦時に内地の歩兵連隊や特攻部隊に少数の本銃が配備されていた。
終戦後に一〇〇式機関短銃はほとんどが廃棄処分され、現在では、あまり現存していないといわれている。
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