ロルヒ (ラインガウ)
ドイツの町 ウィキペディアから
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ロルヒ (ドイツ語: Lorch, ドイツ語発音: [ˈlɔrç][2]) はドイツ連邦共和国ヘッセン州ダルムシュタット行政管区のラインガウ=タウヌス郡に属す市である。この街はワイン造りと観光の町である。この街は世界遺産ライン渓谷中流上部に属す。
紋章 | 地図 (郡の位置) |
---|---|
基本情報 | |
連邦州: | ヘッセン州 |
行政管区: | ダルムシュタット行政管区 |
郡: | ラインガウ=タウヌス郡 |
緯度経度: | 北緯50度02分39秒 東経07度48分14秒 |
標高: | 海抜 79 m |
面積: | 54.43 km2 |
人口: |
4,019人(2023年12月31日現在) [1] |
人口密度: | 74 人/km2 |
郵便番号: | 65391 |
市外局番: | 06726, 06775 |
ナンバープレート: | RÜD, SWA |
自治体コード: |
06 4 39 010 |
行政庁舎の住所: | Markt 5 65391 Lorch |
ウェブサイト: | www.stadt-lorch-rheingau.de |
首長: | イーヴォ・レスラー (Ivo Reßler) |
郡内の位置 | |
地図 | |
ロルヒはラインガウ=タウヌス郡の最も西側、ヴィスパー川がライン川に注ぐ河口に位置しており、ヘッセン州最西端の自治体である。街はビンガー・ロッホのライン川屈曲部から北に約 10 km のラインガウ山地北西の支脈に位置している。市域は、中心部からライン川を遡るとベッヒャーグルントや斜面にキャンプ場が設けられたボーデンタールを過ぎ、タウヌス山地の主脈の端にあたるトイフェルスカドリヒの急斜面、ライン川里程の 534.5 km 付近のシュピースバッハの間近まで達する。ライン川を下るとラインラント=プファルツ州カウプとの市境に面したニーダータール、ライン川里程の 544 km に至る。ここはヘッセン州の最低地点で、高さ 71.1 m の噴水が設けられている。リューデスハイム・アム・ラインとザンクト・ゴアールスハウゼンとの間の中間部分にあたるライン川の絵画的な風景は、自然保護下にある中州ロルヒャー・ヴェルトや街の中心部のヴィスパー川の河口がある非常に狭いライン中流渓谷が開けていくことを特徴としている。市街部は、ロルヒと郡庁所在地のバート・シュヴァルバッハとを結ぶ州道 L3033号線沿いに森の豊かなヴィスパータール内に延びている。急斜面のブドウ畑と深く切れ込んだ深い森が、ロルヒ周辺の風景を形成している。最高地点はエスペンシートの北、州境に近いヒンターローで、高度は約 465 m である。本市は州認定の保養地となっている。
隣接する市町村は、北から時計回りに、ライン川ライン右岸がカウプ、ザウアータール、デルシャイト(その共同林)、リポルン、ヴェルテロート(以上5市町村はラインラント=プファルツ州ライン=ラーン郡)、エストリヒ=ヴィンケル、ガイゼンハイム、リューデスハイム・アム・ライン(以上3市は、ラインガウ=タウヌス郡)、ライン左岸に移ってトレヒティングスハウゼン、ニーダーハイムバッハ、オーバーディーバッハ、バッハラッハ(以上4町村はラインラント=プファルツ州マインツ=ビンゲン郡)である。
本市には、ロルヒの他に、ロルヒハウゼン、エスペンシート、ランゼル、ランゼルベルク、ヴォルマーシートの市区が属している。
この地域では古くからすでに入植が行われていた。最初はケルト人、紀元前後からウビー族が、その後マティアチ族が住んだ。1世紀になるとローマ人がタウヌスまで侵出してきた。ローマ人の跡にはアレマン人が、さらに民族移動でフランク人が定住した。
ロルヒ市の最も古い文献記録は1085年の文書である(Lorecha と表記されている)[3]。この文書には、マインツの聖堂律修司祭 Embricho が聖堂参事会にロルヒの屋敷とブドウ畑を含む多くの財産を寄進したことが、大司教ヴェツィーロによって記述されている。
12世紀以後ロルヒ付近にラインガウアー・ゲビュック[訳注 1]の南端が設けられた。これはマインツ大司教によって設けられた茂みによる国境防衛施設である。13世紀にロルヒに教会区が設けられた。これは1254年に初めて文献に記録されている。1460年、1631年、1794年、第二次世界大戦末期にロルヒで戦闘が行われ、一部は大きく破壊された。
ロルヒは19世紀にプロイセン王国領となり、ヘッセン=ナッサウ州に編入された。ロルヒは、13世紀にはすでに市壁と塔で防御され、都市権を得る条件を備えていたのだが、1885年にやっと市に昇格した。
1919年1月10日に、連合国の占領地域間に暫定的な連合国家としてボトルネック自由国が成立した。現在も、市域内の数多くの「ミニ国家」の紋章がこの時代を思い起こさせる。
ナチ時代、ロルヒには31人の外国人強制労働者(「オストアーバイター」すなわち東方労働者と呼ばれた)が、デグッサ=ヴェルクでの労働を強いられていた。1945年3月には1日1,100人もの強制労働者が対戦車用塹壕を掘るために働かされた[4]。
1960年代初め、ドイツ連邦軍はこの街に第5対空連隊を配備した。兵士とその家族のためにランゼルベルク住宅地が建設された。ヴィスパータールに設けられたラインガウ兵舎はこの街の重要な経済ファクターであった。多くの住民が兵舎、関連行政機関、弾薬庫、装備品倉庫、衛生品倉庫で働いていたためである。
ドイツ連邦軍の再編に伴い、この兵舎は1993年に閉鎖された。地下のロルヒ=ヴィスパータール装備品主要倉庫とロルヒ=ラインガウ衛生品主要倉庫はそこに遺された。連邦軍は2003年にロルヒ駐屯地から完全に撤退した。衛生品主要倉庫は2007年12月31日に、衛生中隊は2008年中頃に、装備品主要倉庫は2008年12月31日に閉鎖された。
ヘッセン州の地域再編に伴い、1971年10月1日にそれまで独立した町村であったロルヒハウゼンとロルヒ市が自主的に合併し、ロルヒ市が拡大した[5][6]。1977年1月1日、州法の発効によりエスペンシート、ランゼル、ヴォルマーシートが合併し、同時にロルヒが属していたラインガウ郡がウンタータウヌス郡と合併してラインガウ=タウヌス郡が形成された[7]。ロルヒに合併した旧町村と中核市区は、ヘッセン市町村法に基づき、オルツバイラート(地区委員会)とオルツフォアシュテーアー(地区代表者)を有するオルツベツィルク(行政地区)となっている[8]。
Zensus 2011 の調査結果によれば、2011年5月9日の調査時点でロルヒの人口は3,806人であった。このうち455人 (12.0 %) が外国人で、183人がEU圏内、126人がEU圏外のヨーロッパ人で、145人がその他の外国人であった[9]。住民は1742戸に住んでいた。このうち513戸が単身世帯、518戸が子供のいないペア、528戸が子供のいるペア、148戸が多世代世帯、39戸が共同生活世帯であった[9]。
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1970年以降はヘッセン州の地域再編後に編入された地域を含む
出典: LAGIS[3], Zensus 2011[9], Hessisches Statistisches Informationssystem
ロルヒは主にカトリックの街であり、カトリック教会が1つ存在する。福音主義信者は1908年からオーバーヴァーク4番地の家の教会ホールで集会を行っている。その他の宗教の信者はわずかである。
ロルヒの市議会は19議席からなる[10]。
イーヴォ・レスラー(無所属)は、当時現職だったユルゲン・ヘルビング (CDU) との2019年6月16日の市長選挙決選投票において 51.2 % の票を獲得して市長に選出された。この選挙の投票率は 63.6 % であった[11]。彼は2020年2月1日に市長に就任した。
過去の市長:
1973年までのロルヒの紋章は、下部1/4が赤地でその中にマインツの輪、主部は銀地に物乞いとマントを切り裂く聖マルティンが描かれていた。
1973年、自主的な合併に伴い、ロルヒハウゼンとロルヒ市の紋章は、共同で制作された紋章に置き換えられ、1973年2月28日にヘッセン州内務省から以下の図柄で承認された。
紋章は左右 2:1 の幅に分割。向かって左は赤地で上下に2つの銀色の輪。その間に水平に置かれた金の梁。向かって右は銀地に赤い剣[12]。
新しい紋章の剣は、かつてのロルヒハウゼンの紋章に描かれていた突き刺された聖ボニファティウスの聖書を意味しているが、ロルヒの古い紋章のマントを切り裂く聖マルティンを示してもいる。マインツの輪は何世紀もの間マインツ選帝侯領に属していたことを象徴している。赤と白の配色はヘッセン州を表現している。
ロルヒは、以下の都市と姉妹都市協定を結んでいる[13]。
ワイン協力都市
ローベルト=シュトルプマン博物館は、市の工芸・郷土博物館である。ここには12世紀の洗礼者ヨハネの刎ねられた頭部の木彫像や14世紀初めの幼子イエスを抱きブドウを持った荘厳な聖母像をはじめとする貴重な彫刻、文書、塑像、宗教用具が収蔵されている。この博物館は復活祭から10月末までの週末の午後、14時から17時まで開館している。同時に観光情報センターとしても機能しており、無料の情報パンフレットの他にロルヒの歴史や地元のワイナリーに関する本を販売してもいる。
主な見所としては、以下のものが挙げられる[14]。
ロルヒでは、ワイン製造と観光業が重要である。また、数多くのサービス業者や手工業者が存在する。ロルヒ=ラインガウ衛生品主要倉庫と装備品倉庫の閉鎖により約280人の民間人の職場が失われた。かつての連邦軍の敷地には産業パークが設けれ、これにより多くの企業の進出が現実化した。失業はこれまで、こうした措置によって部分的ではあるが抑制されている。この街の大きな企業としては、シュヴァンク・シュペディティオーン GmbH やパッケージメーカーのシュラート・プラスティクス GmbH がある。
2019年時点でロルヒ・アム・ラインには社会保険支払い義務のある就労者が784人働いている[18]。
ロルヒは連邦道 B42号線コブレンツ - ヴィースバーデン間に位置しており、これと並行して鉄道が走っている。ヴィースバーデン方面の、フランクフルト方面に通じるアウトバーン A66号線のインターチェンジまでの距離は約 40 km である。ケルン/コブレンツ/ルートヴィヒスハーフェンに通じる A61/A60号線のジャンクションへは、ヴィースバーデン=シールシュタイナー・ライン橋を渡るか、ロルヒやカウプからフェリーに乗り、ラウデルト・インターチェンジあるいはラインベレン・インターチェンジからアウトバーンに乗る。本市はライン=マイン交通連盟のライン右岸線で結ばれている。さらにライン近郊乗り合いバスのヴィースバーデン - ロルヒハウゼン線が通っている。ヴィースバーデンからコブレンツ近郊のエーレンブライトシュタイン城塞を経由してボンに至る新しい広域遊歩道ラインシュタイクはロルヒのラインヘーエを通っている。
ロルヒのワイン造りは、ワイン生産地区ラインガウのグロースラーゲ・ブルクヴェークに属す。アインツェルラーゲは、ロルヒハウゼンからアスマンスハウゼン方面にライン川を遡る順で以下のように並んでいる[29]。
ブドウの種類は主にリースリングであるが、シュペートブルグンダーも比較的大きな割合を占める。ワインからエーデルブラント(蒸留酒)やゼクト(スパークリングワイン)も造られる。
ブドウは、石の多い、熱を蓄えやすい粘板岩と珪岩の急斜面で育つ。ライン川の大きな水面が温度を均一化し、同時に反射板の役割を果たして日光をブドウ畑に導き、強化する。
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