ホワイティ・ハーゾグ

アメリカの野球選手、監督 (1931-2024) ウィキペディアから

ホワイティ・ハーゾグ

ドレル・ノーマン・エルバート・ハーゾグDorrel Norman Elvert "Whitey" Herzog1931年11月9日 - 2024年4月15日)は、アメリカ合衆国イリノイ州ニューアセンズ出身の野球選手(外野手)。左投左打。 のちスカウト(日本のプロ野球ではスコアラーにあたる)、コーチ、監督、ゼネラル・マネージャー(GM)、ファームシステムディレクターを務め、監督としてワールドシリーズ制覇を果たす。

概要 基本情報, 国籍 ...
ホワイティ・ハーゾグ
Whitey Herzog
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1989年
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地 イリノイ州ニューアセンズ
生年月日 (1931-11-09) 1931年11月9日
没年月日 (2024-04-15) 2024年4月15日(92歳没)
身長
体重
5' 11" =約180.3 cm
182 lb =約82.6 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 外野手
初出場 1956年4月17日
最終出場 1963年9月28日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
殿堂表彰者
選出年 2010年
得票率 87.50%
選出方法 ベテランズ委員会選出による
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経歴

要約
視点

ニューヨーク・ヤンキースに入団。 ヤンキースでのメジャー昇格はならなかったが、スプリング・トレーニング(日本のプロ野球でいう春季キャンプ)で接した、アメリカ野球殿堂入りした当時の監督ケーシー・ステンゲルから受けた影響は、後年監督を務めた際に役立った。 ワシントン・セネターズ(現在のミネソタ・ツインズ)に移籍して1956年4月17日にメジャー初出場を果たす。 その後、1958年途中にカンザスシティ・アスレチックス(現在はオークランド)、1961年ボルチモア・オリオールズ1963年デトロイト・タイガースに移籍し、その年限りで現役を引退した。 選手としての通算成績は、634試合に出場して打率.254、本塁打25、打点172、得点213、二塁打60、三塁打20であった。

引退後アスレチックスに復帰し、スカウト(1964年)→コーチ(1965年)を務めた。1966年にはニューヨーク・メッツにコーチとして移籍し、1967年にはフロントに転じ、「ミラクル・メッツ」と言われた1969年のワールドシリーズ制覇に貢献。

1973年テキサス・レンジャーズ監督に就任したが、138試合で47勝91敗の成績でシーズン終了を待たずに解任。1974年カリフォルニア・エンゼルスのコーチを務め、途中4試合代理監督を務める。

1975年途中からカンザスシティ・ロイヤルズ監督に就任し、初年度に66試合で41勝を挙げ、チームは最終的に2位に躍進。1976年からは3年連続ア・リーグ西地区優勝を果たすが、リーグチャンピオンシップシリーズでいずれもヤンキースに敗れ、2位に終わった1979年限りで解任。

1980年途中からはセントルイス・カージナルス監督に就任。シーズン途中でGMを兼任し、1982年までGM兼監督となる。50日間に及ぶストライキでシーズンが二分された1981年には前後期いずれも2位、1982年には92勝を挙げて地区優勝。リーグチャンピオンシップシリーズでもアトランタ・ブレーブスを破り、ワールドシリーズでもミルウォーキー・ブルワーズ(当時はアメリカンリーグ所属)を破り、ワールドチャンピオンに輝いた。1983年以後は監督に専念し、1985年1987年にもチームをワールドシリーズに導き、1985年にはかつて監督を務めたロイヤルズを3勝1敗と追い込むが、第5戦から3連敗して逆転負けを喫する。第6戦で「誤審」を犯した審判ドン・デンキンガー(詳細はこちら参照)が球審を務めた第7戦ではストライク・ボールの判定に抗議し、投手ウォーキーン・アンドゥハー共々退場処分となった。1987年にも敵地メトロドームでの第1戦、第2戦と連敗の後、本拠地ブッシュ・スタジアムで3連勝してミネソタ・ツインズを追い込むが、再び敵地の第6戦、第7戦に連敗した。カージナルスの監督を1990年途中まで務め、退任。

1993年1994年にはエンゼルスのGMを務めた。2009年12月に行われたベテランズ委員会の選考により、アメリカ野球殿堂入りを翌2010年に果たす。

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ハーゾグのカージナルス在籍時の背番号「24」。
セントルイス・カージナルスの永久欠番2010年指定。

殿堂入りを記念し、同年7月31日にカージナルスはハーゾグ在籍時の背番号『24』を永久欠番に指定した。

2024年4月15日に死去[1]92歳没[2]

監督としての特徴

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カージナルス監督当時のハーゾグ(1983年)

投手力と機動力と守備力を重視。

ロイヤルズの本拠地ロイヤルズ・スタジアム(現名称はカウフマン・スタジアム)とカージナルスの本拠地ブッシュ・スタジアム(フィールドも現在より広かった)は当時いずれも走者に有利な人工芝球場だったことあり、「ホワイティ・ボール」と呼ばれた俊足の選手を多用。

特にカージナルス時代の1985年には110盗塁を記録して新人王を獲得したビンス・コールマンを筆頭に、ウィリー・マギー(56盗塁)、アンディ・バンスライク(34盗塁)、トム・ハー(31盗塁)、オジー・スミス(31盗塁)と実に5人が30盗塁を記録し、チーム全体で314盗塁を記録。 (2位は182盗塁のシカゴ・カブス。)

オジー・スミスについては「年間162試合で100点を防ぐ守備力」と高く評価し、サンディエゴ・パドレスからトレードで獲得し、成功を収めた。

出塁率の高い打者を好み、ロイヤルズではジョージ・ブレットハル・マクレー、カージナルスではキース・ヘルナンデスジャック・クラーク、オジー・スミス、ダレル・ポーターらを重視。

詳細情報

年度別打撃成績

さらに見る 年 度, 球 団 ...
















































O
P
S
1956 WSH2 117465421491031374142 3585813500745.245.302.337.639
1957 36937871330016 412001302120.167.301.205.506
1958 865000000 0000010050.000.167.000.167
KCA 8811396112312028 903011610210.240.345.292.637
'58計 96119101112312028 903011710260.228.336.277.613
1959 38158123253671148 910103400232.293.446.390.836
1960 8329525243671028105 3801124020326.266.364.417.781
1961 BAL 11337732339941165132 3514215011416.291.387.409.795
1962 9931226334701317106 3523324113366.266.369.403.772
1963 DET 5266535821012 700011131170.151.303.226.529
通算:8 年 63418851614213414602025589 17213181582418726125.257.354.365.719
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年度別監督成績

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年度チーム地区年齢試合勝利敗戦勝率順位/チーム数備考
1973TEXAL West411384791.3416 / 6途中就任。順位は最終順位。
1974CALAL West42422.5006 / 6代理監督。順位は最終順位。 
1975KCAL West43664124.6212 / 6途中就任。順位は最終順位。 
1976KCAL West441629072.5561 / 6地区優勝
1977KCAL West4516210260.6301 / 7地区優勝
1978KCAL West461629270.5681 / 7地区優勝
1979KCAL West471628577.5252 / 7 
1980STLNL East48733835.5214 / 6途中就任。順位は最終順位。
1981STLNL East491035943.578前後期共に2位
1982STLNL East501629270.5681 / 6ワールドシリーズ優勝
1983STLNL East511627983.4884 / 6 
1984STLNL East521628478.5193 / 6 
1985STLNL East5316210161.6231 / 6リーグ優勝
1986STLNL East541617982.4913 / 6 
1987STLNL East551629567.5861 / 6リーグ優勝
1988STLNL East561627686.4695 / 6 
1989STLNL East571648676.5313 / 6 
1990STLNL East58803347.4136 / 6途中解任。順位は最終順位。
通算18年  240912811125.532  
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脚注

外部リンク

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