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ベロナ(1962年5月13日 - 1966年)は、日本中央競馬会に所属していた競走馬。1965年のオークスを優勝。
父ソロナウェーはアイルランド生産の競走馬・種牡馬で、競走馬時代にはアイリッシュ2000ギニーなどを制し、種牡馬としては1959年に日本に輸出された後も多くの活躍馬を輩出し、1966年には日本リーディングサイアーとなるなど1960年代の日本競馬を代表する種牡馬の一頭となった。
馬主は野上辰之助から途中で大蔵大臣時代の田中角栄に替わった。名義は夫人の田中はなになっていたが、実質上は田中自身の持ち馬であり、ベロナが優駿牝馬を勝った1965年には東京馬主協会会長を務めた[1]。なお、ベロナは永田雅一から譲り受けたとも[2]言われているが詳細は不明。
1964年(3歳)夏の小倉開催でデビューし、2戦目の小倉3歳特別はレコードで初勝利。ここから10月の阪神宝塚3歳Sまで3連勝し、11月の京都オープンで同じソロナウェー産駒キーストンの2着、阪神3歳Sはエイトクラウンの3着に入る。1965年(4歳)はオープンを2着、1着とし、桜花賞はエイトクラウンと人気を分けあって2番人気に支持されたが、12着と初めての大敗を喫す。その後は馬主の変更により阪神・橋田俊三厩舎から東京・田中和夫厩舎に移籍し、転厩初戦の4歳牝馬特別で桜花賞馬ハツユキの4着と盛り返す。優駿牝馬は桜花賞、トライアルと連勝し人気が予想されたハツユキが出走回避、混戦模様になった。ハツユキに乗っていた加賀武見がベロナを選択し、当日は4番人気に支持されて鮮やかに逃げ切った。1番人気ビユーテイロツクは9着、3番人気エイトクラウンは16着に大敗。なお当日、角栄はその時山一證券が経営危機の真っ只中(その後日銀特融を行った)であったことからテレビで観戦していたが、ベロナの快走に「行け、行け、やったあ!」と雄叫びを上げるほど大喜びしていた[2]。同年のクラシックはソロナウェー産駒の当たり年で、桜花賞馬ハツユキ、オークス馬ベロナ、ダービー馬キーストンを送り出した。その後は日本短波賞でカブトシローを破って連勝し、秋はクイーンステークスから始動して2着。続くセントライト記念はクイーンSを勝ったキクノスズランが牡馬を負かすも、ベロナは12着と桜花賞以来の大敗で同年シーズンを終えた。同年は8戦3勝で重賞2勝の成績が評価され、啓衆社賞最優秀4歳牝馬に選定されている。1966年(5歳)は3着、3着、5着、10着と着順を下げていくが、9月の東京オープンで人気に応えて優駿牝馬以来1年ぶりの勝利。目黒記念 (秋)で4着と好走し、天皇賞(秋)は競走中止で引退。
天皇賞の時の故障が原因で予後不良となるが、無事に引退できたなら、初年度の交配はヒンドスタンが予定されていた。
現在は道の駅サラブレッドロード新冠の優駿の碑に石碑が設立されている[3]。
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