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平等と勇敢さ、革新と革命性、人道主義を重んじる西欧の文化 ウィキペディアから
フランス文化(ふらんすぶんか、フランス語: Culture française)とは、現在のフランス共和国で存在している全ての思想や建築、美術、工芸、風俗、食文化、ブランド品、そしてフランス人の気質や性格をまとめたものを指す。
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主な特徴として、「勇敢に自分の権利を守る姿勢[1][2][3][4]、常に上品さと公平性を意識する姿勢[5][6][7][8]、日常生活を軽やかに楽しむ姿勢[9][10][11][12]」などが挙げられている。フランスは人権尊重や人道主義の分野で世界的な影響力を持ち、高雅芸術の中心地として西洋文明の発展に重大な役割を果たしている[13][14]。とくに17世紀から20世紀にかけて、首都のパリは多くの文化的イノベーションとムーブメントの発信地であり、多くの国々やアーティスト、著作家、ファッション業界に影響を与えていた[15][16]。
フランス文化は多様な見た目を持っているが、その中身には一致した特徴があり、見た人に「これがフランスだ」と感じさせることができる[17][18]。ベルギー、スイス、ルクセンブルク、モナコ、イタリア、ドイツ、スペインなどの西欧諸国と国境を接しており、日本文化と同じように、フランス文化は外国の優れた文化を取り入れても、最終的には純粋なフランス風に洗練させる能力が強い。フランス文化の起源はほかの西洋諸国と同じく、古代ギリシャや古代ローマにあるが、大航海時代や宗教改革の進展に伴い、フランスは独自の斬新的なアプローチを切り開いた[19]。
12世紀末、フランスはヨーロッパのカトリック教会における「革新の中心地[20]」となっており、中世ヨーロッパでもっともと多くの大学を持っていた[21]。フランス大革命の前では、これらの教会学校はすでにフランス政府の下の行政機関の1つとして吸収され、パリ大学などの名門大学は独自性の高い「人文学」を重視するようになった[22]。こうしてフランス人はますます「革新的な性格」になるようとなり、ほかの欧州諸国よりも早く、キリスト教の教義の認知から解放されていた。当時のフランス人は、とある聖書の文章を解読する際には、わざわざ教会が教えた教義を避け、理性や哲学の思考でその文章の真実性を判断する傾向があった[23]。
近代には「贅沢さ」と「勇敢さ」の2つの特徴が生まれ、現代に至るフランス人に対するステレオタイプは、この時代に形成されていた。
フランス文化の中の贅沢さは主に17~18世紀にかけて形成され、その始まりはフランス王のルイ14世であった[24][25][26]。ルイ14世はボルボン朝の統治下のフランス王室を絢爛豪華な生活スタイルを過ごさせ、それを意図的に外部へ誇示し続けることにより、ほかのヨーロッパの王家は非常に羨ましがるようとなった。徐々に、フランス製品やフランス様式のモノが欧州最高級とみなされ、フランス語は急速的にラテン語を代わり替え、外交条約や欧州貴族の間に使っている共通語の立場として定着した[27]。当時の高等教育を受けた大学生や思想家・外交官・音楽家・将校たちは、流暢なフランス語が話せることを非常に誇りにしていた[28]。
一方で、フランス文化の中の勇敢さは「フランス大革命」から生まれ、現代のフランス社会で頻繁に見られる企業へのストライキや、政府への抗議デモはこの革命がルーツになっている[29][30][31][32][33]。革命の過程で、中世の革新的な思想はさらに開花し、「人権・平等・理性・科学・尊重」などの用語とその意味がフランス語を通じてヨーロッパ全土に広まっていた。最初は上流貴族だけが影響を受けていたが、フランス語の持つ高級感から市民階級も主動的にこれらの用語に関心を持つようになった。また、市民階級は商業活動を通じて平等主義という概念を拡散させ、一般的な農民階級は最終的にも理解するようになった[34][35]。こうして、革命精神は西欧全体を深く浸透しているながら、東欧のロシアとポーランドの知識人たちへも一定の影響を与え[36][37]、フランス文化は「欧州人や西洋人の思想的進歩」へ大きな貢献をしていた。
二次大戦後、フランス政府はフランス文化を全国民に無料に継承させるため、またはフランス人の小学生に正しいフランス文化を接触させるために、1959年で専門の「文化省」を創設した[38]。この省は教育省の管轄下でつとめており、とくにフランス国内の文化活動を重点的に力を入れ、国内における様々な文化の歴史や保存方法を収集・整理・普及させることを最優先としている。フランス政府は「海外への文化的宣伝にお金を投入し続けるよりも、しっかり国内の文化ビジネスに投入するのほうがより儲けやすい。フランス文化が十分優れていれば、外国人は自然と学びに来る」という考え方が持っている[39][40]。
そして、アンドレ・マルローのように国務秘書を兼任する文化大臣が多く、彼らは退任後で地方自治体に移り、フランス大区での文化発展に貢献しつづけるのが一般的である。文化を推す施設としては、ルーヴル美術館やヴェルサイユ宮殿などの博物館、フランス国立図書館のような図書館、そしてフランスの建築様式(エッフェル塔・エトワール凱旋門)、工芸品、香水などがある。現代では、前衛的な芸術・文学・現代建築などがフランス政府から強い支持を受けていて、ただ実験的の段階で止まるモノでさえも、政府の資金補助を貰えることができる[41]。
実は「文化(Culture)」という言葉の語源はフランス語ではなく、ドイツ語の「Kultur[42]」から来ており、当初ことの言葉は「文化」と「文明」を区別していなかった[43]。しかし、フランス人は文化の意味を別の方向へ解釈させ、1つの国の国民性・建築・美術・工芸・美食・政治・歴史などに結びつけることにより、現代の「文化」という概念を創った[44]。英語圏における「culture」という概念も、ドイツから来たでは無くフランスから受け継がれている。
標準語としてのフランス語、つまり「Le français」とはフランス国内で最も使われている公用語であり、ロマンス語族に属している。歴史的に見れば、1539年で国王フランソワ1世は『ヴィレル・コトレ法令』を署名した以来、パリという街の方言がもっとも標準的なフランス語とされ、その後もずっとフランスの標準行政言語として使用されている。
現代フランス語の先祖・古フランス語は、ガリアのケルト語を基にラテン語の文法や発音の要素を取り入れた言語である。フランク族というゲルマン民族がフランス全土を支配したあと、古フランス語は徐々にゲルマン・ドイツ民族の影響を受けて、中世フランス語へと変化していた。中世フランス語は西ヨーロッパで特に大きな影響力を持ち、騎士文学や恋愛文学の多くが中世フランス語で書かれていて、フランス文化における「ロマンティックな特徴」の基盤はここからを築き始めていた。しかし、西欧しか限られており、ほかの欧州地域にはあまり影響を及ぼなかった。
フランス語が本格的に台頭したのは、ルネサンス以降のことである。ルネサンス期には、フランス人が「進んだ複雑的な概念」を説明するために、わざわざ外国から「新しい単語」を取り入れつづけていた。特にイタリア語やアラビア語からの言葉が多く、これらを総じて「借用語」と呼ばれるようになった。ルネサンスの本場であるイタリアでは、キリスト教の保守主義や外国人排斥心理の影響の下で、借用語を活かす行為がほぼ無かった。それに対して、フランスではその制約が圧倒的に少なく、「科学・技術・人文学・人文思想」に関する借用語を重点的に吸収させていた。1635年、フランス政府は「フランス学士院(Académie française)」という機関を創設し、巧みに借用語をフランス風へ標準化させ、全国へ普及させていた。また、新しいフランス語の単語を意図的に作り出し、庶民でも新しい概念を理解しやすいように多くの工夫をしていた。
16世紀から19世紀にかけて、フランス語はラテン語に取り代わって欧州全体の共通語となっていた。その最大の要因は18世紀にさかのぼり、ヴェルサイユ宮殿とバロック芸術の文化が高級感を伴い、ヨーロッパ各地の王室や宮廷がフランス語を使用するようになりつつ、欧州諸国の植民地を通じて世界中に広まっていた。これにより、フランス文化はヨーロッパで最先進の地位を確立していた。フランス学士院などフランス政府が設立した学術機関は、16~18世紀にかけて、フランス国内のさまざまな用語の「定義・使い方・語源」などを詳しく研究し切り、それらをパリ地方の基準に合わせて調整していた。しかし、これは他のフランス地方の言語習慣を軽視するような傾向を生み出していた。
フランスのノルマンディー地方の貴族「ウィリアム征服王」は今のイギリス王室の直接的な祖先であるため、現代英語の単語には約45~46%がフランス語から由来している[45][46][47]。17世紀から20世紀中の頃まで、フランス語は世界的共通語の地位をなり続けていた。例えば、大英帝国と中国の清王朝が1842年に調印した『南京条約』では、漢文や英語以外、第三方の国へ示すためにフランス語も書かれていた[48][49][50][51]。
現代においてフランス語はそんなに頻繁的に使わなくなった理由は第二次世界大戦にある。戦争中のフランスはナチス・ドイツによって簡単に滅国され、これに伴ってフランス語の威信も急速的に低下されていた。フランスはイギリスとアメリカの助けを借りて何とかドイツに勝利したが、戦後の国力が米英両国より遥かに低いため、フランス語も徐々に米英が使っている「英語」に取って代わられていた。21世紀に入り、フランス語はすでに世界的共通語の地位を失っている。
しかし、依然として各国際組織の中に根付いている。ほとんどの国際組織ではフランス語と英語の2つの言語しか使わず、国連・世界貿易機関・世界保健機関・国際サッカー連盟などは全部そうである。
以下はフランス語が公式言語とする組織や団体:
フランス語の方言には、主にバスク語、ブルターニュ語、アルザス語(ドイツ語系)、フラマン語(オランダ語系)、コルシカ語、ラングドック語、プロヴァンス語などがある。
第二次世界大戦の終戦から現代まで、フランス政府は「反中央集権」と「反民族主義」の政策を進め、学校や行政機関で標準語と方言の両立を奨励している。現代のフランス小学校では方言が教えられるようになったが、フランス語は依然として全国の「第一言語」とされている。アルザスでは、英語が第二言語として広まりつつあり、ブルターニュの農村部では一部の住民が日常的にブルターニュ語を話している。コルシカでも、住民は日常生活でイタリアのトスカーナ方言に似た方言とサルデーニャ島北部の方言に似た方言の2つを使用している。
以下は二次大戦以降、フランス語方言の歴史的な流れ:
日本における江戸時代の寛政年間にあたる1789年、フランスでは『人間と市民の権利の宣言』の第10条[52][53]に
「 | どんな人でも、その意見が宗教に関するものであっても、法で定められた公共の秩序を乱さない限り、自らの宗教観を表明することが認められるべきである。他者は、これらの宗教的な意見を表明する人を不安にさせてはならない。 | 」 |
と明確に書かれており、この自由は外国人にも同様に適用され、「外国人の信仰が劣ってる、祖国人の信仰のほうが優れてる」といった差別意識は現代のフランスでは存在しない[54]。
また、フランス人は人生の途中で信仰を変えたり、無神論から有神論に転じたりすることは珍しくない。このように、様々な信仰自由の概念は『ジュール・フェリー法』や1905年の『国家と教会の分離法』により確立し、第三共和政(1871年~1940年)の初期に明確な法律が制定され、フランスの世俗主義文化を支える柱となっている。
古代フランスではカトリックが国教とされていたが、中世にはすでに世俗化が進み、近代には欧州でもっとも標準的な世俗国家となる。フランス第一共和政の時代から「ライシテ(laïcité)[58]」の原則に基づいており、宗教は私的な領域に属するものと認識されるため、ほかの市民の権利を妨げない限り、フランス政府は一切干渉しないという原則としている。また、「宗教を批判する自由」や、「宗教を単なる洗脳や商売と見なす自由」がある一方で、「無神論や共産主義を批判・改革・反省する自由」もしっかりと保障され、これらの考え方はすべて許されている[59]。
何故フランスは「信教の自由およびそれに付随する権利」をこれほど尊重する理由は、過去にカトリック教会とプロテスタント教会・イスラム教の間で暴力的な対立があった歴史を踏まえ、「国教」や「多様性のない単一的な価値観」は対立を非常に引き起こしやすいことを経験したからである[60]。現代のフランスではあらゆる形式の宗教的な強制でも、気軽な宗教推しでも否定し、強力な世俗主義政策を採用している。これの御かげでフランス国内には、宗教紛争が2度と発生しないようになっている[61][62]。
前述の原則に厳格に従い、フランス政府もフランス国民も、自国の宗教が他国の宗教より優れているといった意識や、そうした優越感をテレビ番組やネット上で拡散する行為はほとんど見られない[63][64]。ある宗教が良いか、悪いかについては、すべて国民の判断に委ねられている。また、日本のように「皇室を批判することに強い恐怖心を抱く[65][66][67][68]」、あるいは「祖国の欠点を公然と指摘すると、猛烈な罵倒の声を招く[69][70]」といった現象も存在しない。現代のフランスでは、一介の平民でも地位の高いフランス大統領やローマ教皇の行動・言論・思想などを堂々と批判することができ、それが問題視されることは無い[71][72]。
長い間、カトリック教会はフランスの宗教生活の中心的な役割を果たしてきた。しかし、フランス王の権力が増すにつれ、国王が教会に代わり庶民の信仰の中心となった。中世から現代にかけて、多くのフランス人はカトリック信者であり続けているが、かれらは教会学校や聖職者の教えに従うよりも、自ら『聖書』を読み、独自研究した結果を信じ、その研究成果を代々自分の子供に伝える傾向は非常に強い[73]。これはフランスのカトリック文化における、重要な特徴の1つである。
カトリックは1789年のフランス革命以前のフランス王国や、19世紀のさまざまな保守主義政権(復古王政、七月王政、第二帝政など)において、唯一の国教とされたが、儀式や形式的な側面に留まることが非常に多い。顕著な例として、「アヴィニョン捕囚」の一件では、フランス国王がローマ教皇をローマから、強引にフランスの小町アヴィニョンに移したことが挙げられる。また、三十年戦争においてフランスが旧教陣営を裏切り、新教陣営に加わってカトリックの国々と戦ったこともその1例である[74]。
しかし、カトリック教会とフランス政府の分離が正式に確立されたのは、産業革命後の1905年のことだった。この時期、フランス人は欧州諸国から「急進的共和主義者」と見なされていたが、その20年後には、世界大戦の傷を経たほかの欧州国家も次第に政教分離の方針を採用し、フランス人がやった事は急進主義ではなく、正常な進歩主義として再評価されるようになった[75]。
フランスのカトリック信者は保守主義が好まれず、進歩主義が支持される理由は20世紀の初頭に遡る。この時期、フランスは第一次世界大戦を終えたばかりであり、農村の人口が劇的に減少した。学歴の低い者や未婚男性が多くを占めていた農村社会から、多くの人々が都市部へ移住して労働に従事するようになった。農村の出身者が都会の知識人と接したあと、または高等教育を受けたあと、知らず知らずのうちに進歩主義寄りの価値観に染められるようになった[76]。一方、イギリスやドイツ、イタリアなどの欧州諸国では、富裕層や中産階級が次々とアメリカへ移民し、就職機会を提供する企業も次々と閉鎖されたことにより、貧困層は農村部に残ることが多く、保守主義の支持層の基盤となっていた[77]。
フランスには当初、「プロテスタント」という宗教は存在してい無かった。この教派は16世紀のドイツ地域発祥の「宗教改革」の影響を受けて誕生したものであり、目的はカトリックが豪華な教会や芸術品を建設することに反対し、その資金を信徒に還元することであった。宗教改革が勃発した当初、フランス人のおよそ30%が瞬く間にプロテスタントに改宗していて、何故なら、プロテスタントの税が明らかに低かったからである。こうした人々はプロテスタント教会の中の「ユグノー派」と呼ばれる。
フランス国王は依然としてカトリックの信仰を保っていたが、彼の封臣や廷臣の中には多くの者が宗教改革運動に加わっていた。国王は、「新教徒が権力を握れば、自身の軍権が弱まる」一方、「カトリック側の言い事に従いすぎれば、傀儡の王となる」ことを察知し、両者を均衡させる という方針を選らんだ。しかし、カトリック教徒たちは新教徒が国王によって保護されていることと認識し、1572年8月24日にパリで「聖バルテルミーの虐殺」を引き起こした。これがフランス宗教戦争の始まりとされる。
当初、カトリック派の指導者はギーズ公アンリ1世であり、新教派の指導者はナヴァール王アンリでした。アンリ・ド・ナヴァールは最終的に1589年にカトリックへ改宗し、フランス王として即位して「アンリ4世」となた。彼は「穏健派のカトリック教徒」として、新教徒との対立を避け、平和的に争いを解決する立場を取っていた。1598年4月13日、アンリ4世は『ナントの勅令』を発布し、フランス国内のユグノー派に信仰の自由を認めた。
しかし、アンリ4世の息子であるルイ13世はカトリック派なので、暴力的手段で新教徒を攻撃し、「ラ・ロシェル包囲戦」などが起こした。さらに、ルイ14世の絶対王政が頂点に達した1685年には、『ナントの勅令』が撤回され、多くの新教徒はカトリックへ改宗を余儀なくされた。しかし、フランスにおけるカトリックへの統制は厳格では無かったため、表向きはカトリックを信仰しているとしつつも、内心では新教徒の思想で教義を解釈し続ける者も少なくなかった。このような人々に対して、フランス政府は干渉することも、かれらの真の忠誠心を確認することも出来なかった。
それでも信仰を守り続けた何万人ものユグノー派信者は、フランスを離れて他国へ移住していた。その中には信仰への確固たる決意があった者もいれば、安全を求めて移住した者もいた。かれらの移住先として最も多かったのはオランダ、イギリス、プロイセン、そしてまだ植民地だったアメリカと南アフリカであった。ユグノー派が持ち込んだ知識は、移住先の科学や芸術の水準を大いに向上させたとされている[80]。
現在、フランスのユダヤ人コミュニティは、「世界ユダヤ人会議」の調査によると約60万人、「アペル・ユニフィエ・ジュイフ・ド・フランス」によると50万人である。これらのコミュニティは、パリ、マルセイユ、ストラスブールの大都市圏に集中している。
フランスにおけるユダヤ人の歴史は2000年以上にわたる。中世初期、フランスはユダヤ人の学問の中心地でしたが、時が経つにつれて、理不尽な迫害が増加した。フランスはフランス革命のときにユダヤ人の解放を行った最初のヨーロッパの国であったが、法的平等が確立されたにもかかわらず、反ユダヤ主義は依然として問題であった。19世紀末の「ドレフュス事件」がその1例である。しかし、1870年の『クレミュー勅令』を通じて、フランスは当時フランス領だったアルジェリアのユダヤ人に完全な市民権を与えた。ホロコーストでフランスのユダヤ人の4分の1が命を落としたにもかかわらず、現在、フランスは欧州最大のユダヤ人人口を誇っている。
21世紀初頭、フランスのユダヤ人は主にセファルディ系で、北アフリカ系の出身者が多い。歴史的なアシュケナジ系ユダヤ人コミュニティの4分の1以上は、第二次世界大戦中のホロコーストで破壊された。ナチスドイツ軍がフランスを占領し、ヴィシー政権が樹立されてからである。ユダヤ人の宗教的な信仰は、超正統派ハレディ派コミュニティから、世俗的で文化的にユダヤ人としてアイデンティティを持つ大規模なユダヤ人層までさまざまである。
イスラム教は21世紀初頭のフランスで3番目に大きな宗教である。政府は国勢調査で宗教的信念に関するデータを収集しないが、推計や調査によると、ムスリムの割合は4%から7%の間とされている[83]。
仏教はフランスで、キリスト教、無神論、イスラム教、ユダヤ教に次いで5番目に大きな宗教とされていう。仏教徒の主な構成は、主にベトナムからの移民であり、ベトナムはかつてフランスの植民地だったためである。
フランスには200を超える仏教瞑想センターがあり、その中には田舎の地域に約20の大規模な修行所があり、フランス人の改宗者や「支持者」の少数派も存在する。近年、フランスにおける仏教の人気の高まりは、米国の影響によるもので、フランスのメディアや学界では仏教の瞑想・座禅・武術などが大きなポジティブな印象を抱いている。プラム・ヴィレッジ伝統の仏教学校はフランスで発展し、ドルドーニュにあるプラム・ヴィレッジ修道院がその中心地である[85][86]。
フランスは2006年に「呪い文化運動」に関する初の国会委員会を設置し、その報告書では危険級と見なされたいくつかの呪文や祈祷文が発見された。しかし、呪い文化運動の信者たちはフランスの宗教自由を盾として、その報告書を批判した。一方、2000年代に支持者が多かったものの、2020年代に入ると、コロナ禍の影響でフランス政府は「呪い文化運動は、ロシアや中国が民主国家の正常な社会情勢を破壊し、騒乱を引き起こすためのスパイ活動だ[87][88][89]」と見なされることより、呪い文化運動はいま急速に衰退している。
フランスでは、家族は「ロマンチックな関係」に基づいて構築されるべきだとされている。結婚の動機は「真に愛し合っていること」のみであり、周囲の人々の影響、家系の存続、金銭的依存、または曖昧な理由では結婚しないことが求められる。フランスでは、伝統と革新の両方に対して寛容であり、LGBTがフランス社会の主流価値観となっている一方で、保守的な家族観を持ち続ける人々もいる。革新派と保守派の間で対立はほとんど見られず、フランスの法律も家族問題における対立を厳しく禁じている。いかなる立場の意見も圧倒的な優位性を持つことはない。
長年にわたり、フランス人は「白人-カトリック教徒」といった主流の集団に対してだけでなく、「同性愛者、ペット、有色人種、障害者、異教徒、自然や環境」などに対しても寛容であり、「全ての命は平等である」という信念がフランス人の心に深く根付いている。このため、フランス人は他の家族を持つ生命に対して害を与えることができないとされている。フランス人がこのような考え方を持つ理由は、義務教育の中で「家族の人道主義」の重要性が強調されており、幼少期から強い共感力を育む教育がなされているからである。これにより、将来的に政府の官僚となった際にも、自分とは異なる背景を持つ家族に対して「相手の立場に立って考える」態度で接することができるようになる。
フランス社会の基本単位は、カトリックを基盤に、そこに少しの農村や農業的な価値観が加わったもので、農産物や礼拝を中心とした生活様式で成り立っている[90]。20世紀以降、フランスの「伝統的な」家族構造は衰退したが、完全に消滅したわけではない。かつてほどカトリックに対する信仰は強くなくなり、農村に限定された生活観も少なくなった。第二次世界大戦後、多世代が一緒に住む大家族はほとんど見られなくなり、現在では両親と1人の子供という核家族が主流となっている[91]。現代では、特に富裕層でない限り、大きな家族を負担と感じる人が多く、大家族から得られる支援が少ない一方で、義務だけが増えると考えられている。1960年代以降、フランスの結婚率は急激に低下し、離婚率は顕著に増加している。若い世代は、結婚が絶対的な幸福をもたらすとは考えておらず、むしろ結婚が家族内のいじめを耐えなければならなくなる、自由な時間が減少する、経済的な負担が増える、そして生活に対する情熱が失われる可能性があると感じている。フランスの《離婚法》の変遷も、伝統的な価値観の変化を反映している[92]。
INSEEのデータによると、フランス本土における家族構成は絶えず変化している。特に1982年から1999年にかけて、ひとり親家庭の割合は3.6%から7.4%に増加した。また、未婚カップルや子供のいない夫婦、単身の男性(8.5%から12.5%に増加)および女性(16.0%から18.5%に増加)の割合も大きく増えている。分析によると、フランスの住居の3分の1が単身世帯であり、4分の1が子供のいない夫婦によって占められている[93]。
フランスには悠久な文学的伝統があり、文化もフランス文化の中の重要な一部になっている[94][95]。
その発展は中古フランス語の時代にさかのぼり、つまりヨーロッパ中世のフランク王国の時代にある。古フランス語やラテン語で書かれた文学作品も存在しているが、それらはフランス文学の範疇には含まれない[96]。なぜなら、それらはフランスという国とは無関係で、古代のケルト人・ガリア人・ローマ人によって書かれたものであり、当時は「フランス」という国家意識が存在していなかったからである[97]。
また、「フランス文学」と「フランス語文学」は異なる概念である。フランス語文学はフランスという国に加えて、ベルギー・スイス・カナダ・セネガル・アルジェリア・モロッコの6か国で書かれた文学を含むが[98]、その中で、フランス国籍を持つ人が書いたフランス語文学のみが「真のフランス文学」とされている[99]。逆に、バスク語やブルトン語など、フランス語以外の言語で書かれた作品であっても、フランス領内で書かれたものであれば、フランス文学として認められている[100]。
最古のフランス文学は11世紀の叙事詩であり、その中でも最も古い作品は作者不明の『ローランの歌』である[101]。同じ形式の叙事詩にはイギリスの『ベーオウルフ』や、ドイツの『ニーベルンゲンの歌』があり、英独の場合には、多くの叙事詩は偉大な君主だけを称えているが、フランスの場合には「騎士と貴婦人の恋愛」を重点的に書かれている[102]。たとえば、『ローランの歌』はフランク王国の有名な王、カール大帝(742~814年)の冒険とその恋愛を讃えていた。
中世フランスでは騎士伝説も盛んでいて、これらの伝説は騎士道や愛する人ための勇敢な精神を称賛している。この時代の最も重要な作家は、12世紀のクレティアン・ド・トロワであり、彼はフランス中世最大の叙事詩人として知られている[103]。
さらに、南フランスのプロヴァンス地方で流行した吟遊詩は、貴婦人や田舎女性の恋愛経歴を主題にしたものが多く、豊かな想像力を持ちながらも、遊び心が文章各所に詰め込み過ぎて、文学としての価値はそれほど高くなかった[104]。中世が終わりに近づくまで、フランスに本当の偉大な抒情詩人は現れず、最初の偉大な抒情詩人はフランソワ・ヴィヨン(1431~1465年)とされている[105]。
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