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ノーキー・エドワーズ(Nokie Edwards、1935年5月9日 - 2018年3月12日)は、アメリカ合衆国出身のギタリスト。ザ・ベンチャーズの初代ベーシストであり、2代目リード・ギタリスト。
ノーキー・エドワーズ Nokie Edwards | |
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ノーキー・エドワーズ(2009年) | |
基本情報 | |
出生名 | Noel Floyd Edwards |
生誕 | 1935年5月9日 |
出身地 | アメリカ合衆国 オクラホマ州ラホマ |
死没 | 2018年3月12日(82歳没) |
ジャンル |
インストゥルメンタル サーフ・ミュージック カントリー・ミュージック |
職業 | ギタリスト |
担当楽器 | エレクトリックギター、ベース、シタール |
活動期間 | 1958年 - 2017年 |
共同作業者 | ザ・ベンチャーズ |
公式サイト |
www |
著名使用楽器 | |
本文参照 |
チェロキー族の血を引く家系の12人兄弟の1人としてオクラホマ州ラホマに生まれ、後に一家の転居に伴いワシントン州ピュアラップで育つ。家族や親族の大多数が何かしら楽器を演奏出来たという恵まれた環境の中、5歳からギターを手にするようになる[1]。初めて弾いたギターは、家族所有のステラ社製アコースティックギターであった[1]。9歳時にはバンジョーやマンドリン、フィドル、ベースなど様々な弦楽器も習得していたが、更なる上達を目指すために11歳の頃にギターに専念[2]、加えてタコマのタレントコンテストで優勝したのを切っ掛けに[3]人前で演奏する機会が増し、音楽で初めてギャラを得たのも同時期であった[2]。また、エレキギターを初めて弾いたのは12歳頃だったという[1]。
17歳の頃に初めて自分のエレキギターを手に入れ、ナイトクラブやラジオ番組に出演するなどを経て本格的にプロとしての活動を始める[1]。カントリーバンドでの活動が主であったが、後に流行り出したロックンロールに興味を抱き、それらのレコードを買い漁っては聴き込むことで、そのエッセンスを吸収して行った[2]。
1958年、カリフォルニアからタコマに活動拠点を移したバック・オーウェンスが同地でバンドを結成することとなり、スカウトを受けたエドワーズはギタリストとして加入する。また、オーウェンスがKAYEラジオのオーナーを務めていた[2]関係から、同じ社屋にあったKTNTテレビの専属バンドの一員としても活動していた。
1959年、スポケーンのナイトクラブで演奏していた際[4]、ザ・ベンチャーズの中心メンバーであるドン・ウィルソンとボブ・ボーグルに出会い、メンバーに誘われる[3]。カントリー中心の音楽活動に満足出来なくなっていたこともあり[1]、2人からの誘いに応じてベーシストとして加入[注釈 1]、その直後にレコーディングした「ウォーク・ドント・ラン(急がば廻れ)」が全米2位のヒットを記録したことで自身の知名度も上がることとなった。後にボーグルの申し出で担当楽器を交代することとなり、ザ・ベンチャーズのリード・ギタリストとして活躍、バンドの全盛期に貢献した。
1968年、エドワーズは牧場を手に入れ、馬主として競馬界に進出することとなる。そのため、ツアーへの同行が困難になったため、ザ・ベンチャーズを脱退する[5]。以降の音楽活動はナイトクラブの出演やスタジオ・レコーディングの参加、ソロ・アルバムの製作など散発的なものとなり、当時はレオン・ラッセル、グレン・キャンベル、デラニー&ボニーらと活動を行っていた[5]。
1972年にエドワーズと入れ替わりに加入したジェリー・マギーがザ・ベンチャーズを離れたためメンバーに復帰、1985年に再び脱退するまで活動を続けた。その後はナッシュビルに拠点を移し、カントリー・ミュージックに深く根ざした音楽活動を展開。様々なミュージシャンとコラボレーションを行ったり、アルバム製作や来日公演も定期的に続けていた。
1999年より、ゲストという体裁ながらもザ・ベンチャーズのレコーディングやライブへ再び関わる様になる。更に、同年からザ・ベンチャーズの来日公演が夏と冬にそれぞれ行われる事になり、スケジュールの都合で参加出来ないジェリー・マギーに代わる形で冬のツアーに参加していた。この体制での公演は2012年まで続き、日本ではエドワーズとマギー各々のザ・ベンチャーズを楽しむことができた。
2004年4月、ザ・ベンチャーズのメンバーと共に日米交流150周年記念外務大臣賞を受賞[6]。ドン・ウィルソン、ボブ・ボーグルと共に、シアトルセンターで催された授賞式に出席した。
2008年5月、ザ・ベンチャーズがロックの殿堂入りを果たしたことから、ドン・ウィルソン、リオン・テイラー、ボブ・スポルディング、ジョン・ダリルらと共に、ニューヨーク・ウォルドルフ・アストリアホテルで催された授賞式に出席。記念に行われたライブでは「急がば廻れ(ウォーク・ドント・ラン)」と「ハワイ・ファイブ・オー」の2曲が披露されたが、前者ではベースを、後者ではリードギターをそれぞれ担当した。
2010年4月、ザ・ベンチャーズのメンバーと共に旭日小綬章を受章[7]。
2016年、自身の高齢と体力低下により最後の来日ツアーを表明[8]。同年4月14日に起きた熊本地震からの復興を応援するチャリティー公演を兼ねたもので、9月から10月にかけて熊本など5都県を巡った[9]。
ギターはまったくの独学で、カントリー・ミュージックやブルーグラスから得た技術がエドワーズの音楽的バックグラウンドとなっている。自身にとってのギターヒーローはレス・ポールとチェット・アトキンスであり、後にマール・トラヴィスも好むようになったという[2]。演奏中に取り込むフィンガーピッキングや高度なカントリーリックからその影響がうかがえる。
使用するピックは、かつてはフラットピックが主体であったが、カントリー・ミュージックへの傾倒を深めるにつれ、1970年代からサムピックを併用することが多くなり、後年ではほとんどの曲をサムピックで演奏していた。また、フィンガーピッキングの際の爪の保護のために、薄いグラスファイバーを爪に貼っていた。
ギターの音色も各年代毎に変化している。初期のクリーンかつ硬質なトーン、モズライトを使っていた頃のファズとブリッジ・ピックアップ・ポジションから繰り出す金属的なサウンド、1970年代前半におけるナチュラル・ディストーション・サウンド、そして後年のソフトなクリーン・トーンと変化している。
1970年代にはワウペダル等を使用したこともあるが、基本的にエフェクト類は多用せず[3]アンプで音作りをするスタイルである。スティールギター奏者のレッド・ローズがエドワーズの為に特別製作したファズやコンプレッサーを使用する程度で、後者は近年まで使用していたという。
現在では広く使用されているライトゲージ弦であるが、普及の切っ掛けはエドワーズだと言われている[11]。かつてのギター弦にはライトゲージのセットが販売されておらず、エドワーズ自身も1弦と同じ弦を2弦コースに張ったり、1弦のコースにバンジョーの弦を張って2弦から6弦のコースにそれぞれ1弦から5弦のゲージを張るなどの工夫[注釈 2]をしていたが、後にエドワーズの要望にこたえる形でアーニー・ボール社がライトゲージ弦を製作したという[12][注釈 3]。
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