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ジョージ・アダムスキー(英: George Adamski、1891年4月17日 - 1965年4月23日)は、UFO研究家、「宇宙人と会見した」と自称したコンタクティーの元祖として知られるポーランド系アメリカ人。
宇宙人と空飛ぶ円盤との遭遇体験を書いた本はベストセラーになり(後述の著作を参照)、アダムスキーらコンタクティーによって新しいユーフォロジーの伝統が生まれ、数多のコンタクティーが現れた[1]。宗教的ユーフォロジー(UFO宗教)の祖の一人である[1][2]。彼が撮影した空飛ぶ円盤は、いわゆる「空飛ぶ円盤」の典型的なイメージとなっており[3]、20世紀の日本のポップカルチャーへの影響も大きい[2]。
アダムスキーは1899年から1903年まで(年齢では、8歳から12歳にかけて)単身でチベットに留学し、ダライ・ラマから教えを受けたと主張している[9]。
と学会運営委員の皆神龍太郎は、当時のチベットは鎖国政策をとっていて、外国人のアダムスキーが入国することは困難だったと指摘している[9]。さらに1900年にチベット入国を果たした日本人の河口慧海は『チベット旅行記』を記しているが、そこには白人の少年が留学したという記録は掲載されていないとも指摘している[9]。また、河口慧海はチベット入国の前にインドでチベット語を習得しチベット僧になりすましてチベット入国を果たしたが、冒険家でもある河口でも何度も遭難して死にかけながらようやく入国できたのであり、8歳の白人の少年が単身でチベットに入国することは考えられないと指摘している[9]。
さらにアダムスキーは1936年にWisdom of the masters of the Far East(直訳すると『極東の賢者の知恵』。日本語訳は『ロイヤル・オーダー』たま出版)という本を出版した。皆神は「『極東の賢者の知恵』という書名からは、東洋哲学やチベット仏教に関する本だとしか思えないが、Q&Aの中には、チベット仏教固有の神の名などは一つも出てこない」[10]と指摘し、さらに「「イエスの教えで最も重要なポイントは何か」といった質問が中に入っていたりして、どう見ても『極東の賢者の知恵』には見えない」[10]とも指摘している。
1950年代初期に、アダムスキーは空飛ぶ円盤に遭遇したと主張しはじめた。中でも有名なのは、1952年11月20日の出来事である。その日、アダムスキーが友人やジョージ・ハント・ウィリアムソン[11]夫妻と共にモハーヴェ砂漠にいると、巨大な円筒形状の飛行体が出現した。それが自分を探していると感じたアダムスキーは車で人気のない場所へ移動した。するとその飛行体から発進した銀色の円盤が着陸したという。その後アダムスキーは皆と別れ一人で歩くと、一人の人間に遭遇した。身振りとテレパシーとで彼が宇宙人だと理解した。その宇宙人は金星人で、核実験への懸念をアダムスキーに伝えた。このとき仲間のジョージ・H・ウィリアムスンは金星人の足型を石膏でとった(「なぜに偶然にしても、足形をとる石膏の一式を所持していたのか?」など、疑問が多数ある)。
翌月の1952年12月13日には、アダムスキーは円盤の写真を撮影することに成功した。このとき撮影された空飛ぶ円盤は「アダムスキー型」と呼ばれ、これ以降世界各地で目撃され写真が撮影された。アダムスキーが撮影した写真は、反射望遠鏡のレンズで直接撮影(カメラを取り付けて)されたものであるので、カメラの望遠レンズで撮影されたものとは異なり、中央部にピントが合い、周辺はボケている。なお、当時の英国版と日本版の書籍に掲載された写真は、米国版のオリジナル写真に(円盤の輪郭などの)修正(補正)を加えたとみられる形跡があり、同じ写真であるのに異なったものに見えるという問題を生んでいるが、現在発行されている書籍の写真はオリジナルと見られる。1965年にメリーランド州でアダムスキーによって撮影された宇宙船の8ミリ映像はコダック社の光学物理学者ウイリアム・シャーウッドによって、8メートルほどの物体を実際に撮影した映像であると鑑定されている[12]。
また、彼が宇宙人と会見した際に、他の目撃者たちは遠く離れていたために、双眼鏡で見ていた一人を除いて他の者たちは宇宙人を確認しておらず、円盤も光としてしか見えていなかった。その上に、全員が上空の円盤すら目撃していない。ジェロルド・ベイカーという青年が後日アダムスキーのところで撮影したとされている円盤写真については、ベイカー自身は「勝手に名前を使われてしまった。円盤なんか撮影していない」と証言している[13] 。これに対して、アダムスキーは1953年11月2日付けでベイカーに出した手紙で以下のようにベイカーを説得している。
「君は、自分の名前が付けられた写真が、本に載っていることを知っているよね。あのブローニーで撮ったもののことだよ。みんなは、今までと同じ様に、君が空飛ぶ円盤に興味を持っているということを知っているし、変わらず本も買ってくれている。君は、色々いいことができるんだよ。だって、君は、円盤についてたくさんのことを知っているじゃないか。だから、毎晩のようにどこでも講演ができる。そういう需要があるんだよ! 君は自分の名が付けられている、あの本の写真のおかげで、喰ってもいけるんだ。君は、あの写真との関係を保ってさえいれば、私みたいに有名になれる、ということを忘れないように。円盤に関する知識さえあれば、チャンスは君のものだ」 — カーティス・ピーブルズ、『人類はなぜUFOと遭遇するのか』[14]
しかし、ベイカーはそれを拒否している。これについてアダムスキーおよび当時現場にいた秘書のルーシー・マクギニスは、このような会話は全く無かったと否定している。また、ベイカーはアダムスキーが砂漠で宇宙人とコンタクトする前に、その計画を語る声を録音したテープをアダムスキーの家で偶然に聞いたと後になって語っているが、アダムスキーはベイカーがアダムスキーの元へ初めてやってきたのはコンタクトの後(翌年)のことであると述べている。このベイカー発言に対して、現場にいたルーシー・マクギニスは、イギリスのUFO研究家のティモシー・グッドの取材を受けて、「写真は間違いなくベイカーが撮影しました。彼は私の面前ではそのような嘘は決して言えないでしょう」とベイカー発言を強く否定している。
その後もアダムスキーは、他の宇宙人に会ったと主張している。会った宇宙人は、ほとんどが金星人だが火星人や土星人もいたという。また、巨大な円筒形状の宇宙船(母船)に乗り月を一周したときには、月の裏側で谷や都市、草原を走る動物を見たとの主張をした。また、金星を訪問したときには自分のかつての妻の転生した少女にあったと主張した。
しかし、アメリカ航空宇宙局(NASA)のアポロ計画、それにソ連やヨーロッパなどの月探査では月の裏側には都市を発見できなかった。金星の文明の存在も否定されている。また「太陽の表面は熱くない」「宇宙空間で流星が飛び回っているのを見た」「宇宙から地球は白く光って見えた」などの発言はNASA等の発表や現代科学の観測結果とは異なるため、現在ではアダムスキーの主張はほぼ問題にされない状況となっている。
アダムスキーが1952年に撮影した円盤写真は、1930年代に米国Sears社が販売を開始したランタン(Model L46S)を利用したものであること(ランタンの吊り下げ金具を取り付ける四角い穴と、円盤船体の穴の形状と位置の正確な一致など、多数の一致が見られること)および、1965年に撮影された8ミリフィルムの円盤も、斜め半分に切断した模型を透明板に貼り付けて撮影したものであることが、アダムスキーの側近に取材経験があるUFO研究家の益子祐司により、証拠の比較画像を添えて指摘されている。模型の利用は、半透明の船体の映像(フリーエネルギーの推進装置が写ったもの)を公開できない事情による可能性があるという主張もある(実際に、円盤はガラスの釣鐘のような半透明の船体であったとアダムスキーは体験記で描写しているが、発表された写真やフィルムの円盤は全く半透明には見えない)。
著作者名が「ジョージ・アダムスキー」の場合は著作者名の記載を省略する。それ以外の場合は著作者名を明記する。
新アダムスキー全集と区別するため、旧アダムスキー全集と表記する。
旧アダムスキー全集と区別するため、新アダムスキー全集と表記する。
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