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ジョン・ベイル
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ジョン・ロバート・ベイル(John Robert Bale , 1974年5月22日 - )は、アメリカ合衆国メリーランド州出身の元プロ野球選手(投手)。
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経歴
プロ入り前
サザンミシシッピ大学を卒業。
ブルージェイズ時代
1996年にトロント・ブルージェイズからドラフト5巡目で入団。
1999年9月30日に、メジャーデビューを果たす。
オリオールズ時代
2000年12月11日、ジェイソン・ワースとのトレードでボルチモア・オリオールズへ移籍した。
メッツ時代
2002年にはニューヨーク・メッツに所属していたが、メジャーでは一回も出場しなかった。
レッズ時代
2003年5月8日、シンシナティ・レッズと契約した。この年は、10試合に出場した。
広島時代
2004年に広島東洋カープに入団。シーズン開幕より先発ローテーションを支え、11勝を挙げた。
2005年には奪三振率の高さを買われ、抑えに転向して活躍。
2006年も開幕直後は守護神として活躍していたが、5月13日の対千葉ロッテマリーンズ戦で大塚明への5球目を投じた時に雨で足を滑らせ左足内転筋を負傷した(代わった林昌樹が福浦和也にサヨナラ安打を打たれ敗戦。根元俊一の項参照)。そのため、永川勝浩が代わりに守護神を務めることになった。怪我からの復帰後は先発に戻り、まずまずの成績を残すも、長期離脱と高年俸100万ドルがネックとなり10月18日に戦力外通告を受ける。
ロイヤルズ時代
2006年12月8日にカンザスシティ・ロイヤルズと2年契約を結んだ。
2007年は26試合に出場した。
2008年4月に肩を痛め故障者リスト入り。5月初旬に故障者リストから復帰する予定だったが、5月8日にチームが滞在していたホテルでドアを殴り左手を骨折。肩の回復が順調でないことに苛立ちを募らせた末の行動だった[1]。
2009年には、6月24日の対ヒューストン・アストロズ戦で延長11回のマウンドに登板し、メジャー初セーブを記録した。
しかし安定した成績は残すことが出来ず、シーズン終了後の12月10日に、フリーエージェントになった。
広島復帰
2010年2月、ベイルの妻から古巣である広島東洋カープに復帰の打診があった。球団はベイルの左打者に対する高い奪三振率を評価し、カープへの復帰が決定した。シーズン中は主に中継ぎで一時は抑えを務めるなどしたが、安定感に欠け、後半戦は二軍暮らしとなり1シーズンで退団となった。
タイガース時代
12月7日、デトロイト・タイガースとマイナー契約した[2]。
独立リーグ時代
2011年4月12日、独立リーグであるアトランティックリーグのカムデン・リバーシャークスと契約した[3]。
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選手としての特徴・人物
上手と横手を併用する変則投法と、変化量の大きなカーブ、チェンジアップ、スライダーなどの変化球を内外に投げ分けるスタイル。カープの外国人左腕投手で初めての白星をあげた選手でもある。2004年から2006年のカープ在籍中は最速で150km/hを超える速球を投げていたが、2010年に復帰した際には140km/h前後に落ち着いていた[4]。
端正な顔立ちで、ブルージェイズ時代には地元にファンクラブがあったほどである。マーティ・ブラウンのベース投げ事件を機に製作されたTシャツの文言を考え、抑え役を永川と交代するにあたって消火器を手渡すなど、ユーモアに富んだ選手としても知られる。
詳細情報
年度別投手成績
表彰
- NPB
- JA全農Go・Go賞 (最多奪三振賞:2004年5月)
記録
- NPB投手記録
- 初登板・初先発:2004年4月4日、対中日ドラゴンズ3回戦(ナゴヤドーム)、5回2失点
- 初奪三振:同上、1回裏に井上一樹から見逃し三振
- 初勝利・初先発勝利:2004年5月9日、対読売ジャイアンツ9回戦(広島市民球場)、8回0/3を1失点
- 初完投勝利:2004年9月22日、対阪神タイガース25回戦(広島市民球場)、9回6安打2失点
- 初セーブ:2005年4月2日、対読売ジャイアンツ1回戦(東京ドーム)、9回裏に3番手で救援登板・完了、1回無失点
- 初ホールド:2006年4月6日、対阪神タイガース2回戦(倉敷マスカットスタジアム)、10回表に2番手で救援登板、1回無失点
- NPB打撃記録
背番号
- 49 (2004年 - 2006年)
- 94 (2010年)
脚注
関連項目
外部リンク
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