ジェイミー・モイヤー

アメリカの野球選手 (1962 - ) ウィキペディアから

ジェイミー・モイヤー

ジェイミー・モイヤーJamie Moyer, 1962年11月18日 - )は、アメリカ合衆国ペンシルベニア州バックス郡セラーズビル出身の元プロ野球選手投手)。左投左打。

概要 基本情報, 国籍 ...
ジェイミー・モイヤー
Jamie Moyer
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フィラデルフィア・フィリーズでの現役時代
(2007年8月7日)
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地 ペンシルベニア州バックス郡セラーズビル
生年月日 (1962-11-18) 1962年11月18日(62歳)
身長
体重
6' 0" =約182.9 cm
185 lb =約83.9 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
プロ入り 1984年 ドラフト6巡目(全体135位)でシカゴ・カブスから指名
初出場 1986年6月16日
最終出場 2012年5月27日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
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30代半ば頃から本格的に開花した遅咲きの投手で、後述のように多くの年長記録などに名を連ねている。

経歴

要約
視点

プロ入り前

ペンシルベニア州フィラデルフィア郊外のセラーズビルの出身。フィラデルフィア・フィリーズのファンとして育った。1980年にフィリーズがワールドシリーズ初優勝に輝いた時には、高校を抜け出してパレードに参加していたというエピソードもある。フィラデルフィアにあるセント・ジョセフ大学に進むとエースとして活躍、同大学で唯一の永久欠番に指定されている。

プロ入り後

1984年MLBドラフトシカゴ・カブスから6巡目(全体135位)指名され入団[1]1986年6月16日のフィリーズ戦でメジャーデビューを果たし、8月16日のモントリオール・エクスポズ戦でメジャー初完封を記録した。

1988年12月5日にトレードテキサス・レンジャーズへ移籍したが、1990年11月13日に解雇され、1991年1月9日にセントルイス・カージナルスへ移籍[1]。シーズン終了後の10月14日に解雇される。

1992年1月8日に古巣のカブスと契約[1]。3月30日に左肘を故障していたモイヤーに球団のファーム・ディレクターから「君だったら優秀なコーチになれる。選手を引退してマイナーの投手コーチをやらないか?」と打診されたが拒否したために解雇された[1][2]

開幕後の5月24日にデトロイト・タイガースと契約したが、メジャーでプレイできずにシーズンを終え、12月14日にボルチモア・オリオールズへ移籍し[1]、ゆっくりと才能を開花させていった[2]

1996年は開幕をボストン・レッドソックスで迎え、7月30日にダレン・ブラッグとのトレードでシアトル・マリナーズへ移籍[1]。その後、安定した成績を収めるようになった。1997年に自己最多の17勝を記録し、チームは地区優勝を果たし、モイヤーは初のプレーオフを経験。1998年8月27日のクリーブランド・インディアンス戦で、通算100勝と通算1000奪三振を同時に達成した[3]

2001年には38歳にして自身初の20勝、2003年には40歳で21勝を記録した。2005年6月8日に通算200勝を達成。マリナーズでは11シーズンで145勝を挙げた。これは球団最多記録である。

2005年7月末にヒューストン・アストロズへのトレード話が持ち上がった際は拒否したが[4]2006年8月19日に若返りを図るマリナーズのチーム方針と、当時ワイルドカードを争っていたフィリーズとの思惑が一致し、トレードで移籍。フィリーズでは5勝を挙げ、球団最年長勝利投手となった。10月26日に球団は2008年までの2年総額1050万ドルの契約を結んだ[4][5]

2007年は44歳と高齢にもかかわらず、チームで唯一年間を通して先発ローテーションを守り、33先発で14勝を記録し健在ぶりを示したが、一方で防御率は5.01とやや精彩を欠いた。

2008年は45歳を迎えたが、16勝7敗、防御率3.71という堂々たる成績を残した。特に勝ち星、勝率はチームトップであり、フィリーズの地区優勝に大きく貢献した。45歳以上でのシーズン2桁勝利投手は、ジャック・クイン(1929年)、サチェル・ペイジ(1952年)、フィル・ニークロ(1984年 - 1986年)に次ぎ史上4人目(6度目)[6]であり、16勝は1984年、1985年のフィル・ニークロに並ぶトップタイである。またこの年の5月26日のロッキーズ戦で通算235勝目を挙げ、史上6人目となる全30球団から勝利を記録している[7]

2009年も先発ローテーションの一角としてシーズンを迎える。オールスター以後は先発から外され中継ぎでの登板したこともあったが、それでもたびたび好投を見せてチーム最多タイとなる12勝を記録し、存在感を示した。

2010年5月7日のブレーブス戦では、9回2安打無四球5奪三振で完封するなど、依然衰えぬ投球でMLB最年長完封記録を更新している。

同年のMLBドラフトで、内野手である息子ディロン・モイヤーがミネソタ・ツインズから22巡目(全体675位)で指名された。

2010年シーズン終了後、契約が切れ、フィリーズの40人ロースターから外れた。その後、ウィンターリーグに参加するが、そこで左肘に選手生命に関わる怪我を負う。12月1日に左肘のトミー・ジョン手術を行った。手術後、モイヤー財団の公式フェイスブック上で、「スーパーマンはカムバックする」とコメントを残した[8]

2011年は手術のリハビリのためプレーせず。

2012年に復帰してコロラド・ロッキーズとマイナー契約を結び、スプリングキャンプの招待選手を経て、開幕先発ローテーション入りを果たした。 その後、4月17日にパドレス戦において勝利し、MLB最年長勝利記録を更新(49歳151日)した。[9] しかし、6月1日に自由契約となり、6月6日にオリオールズとマイナー契約を結んだが、3Aで3試合登板後にメジャー昇格とならなかったため6月23日に本人の意向で契約解除となった[10]。6月25日にトロント・ブルージェイズとマイナー契約を結んだ[11]。7月5日に自由契約となった[12]

2013年9月7日、モイヤーは往年の名ナックルボーラーであるチャーリー・ハフティム・ウェイクフィールドナックルボーラーとして復帰が可能かを相談していたことが報道された[13]。しかし、10月2日のラジオインタビューにて、「私はやり遂げた。もう復帰することはないと思う」と事実上の現役引退を表明した[14]

その後、2014年よりマット・ステアーズと共にフィリーズの球団専属解説者を務めている[15]

選手としての特徴

フォーシームでも130km/h程度で、主に使用する球種はシンカー(約120km/h)やチェンジアップ(約114km/h)、100km/hを下回るカーブなど多彩で、それらを抜群の制球力と緩急で操る。

慈善事業家として

慈善事業家として知られている。ジェイミー・モイヤー財団を夫人のカレンと運営しており、医療関連施設を中心にサポートを行っている。また、オフにはチャリティーボウリング・トーナメントを主催している。これらの活動が評価され、2003年にロベルト・クレメンテ賞を受賞した。2006年にはマリナーズ時代に6シーズンを共にしたイチローも同財団主催のチャリティーイベントに協力している[16]

詳細情報

年度別投手成績

さらに見る 年 度, 球団 ...




















































W
H
I
P
1986 CHC 1616110740--.63639587.1107104213453352495.051.71
1987 353310012150--.444899201.02102897951471121271145.101.53
1988 34303119150--.375855202.02122055741214084783.481.32
1989 TEX 1515100490--.30833776.084103302441051414.861.54
1990 3310100260--.250447102.111563944581059534.661.50
1991 STL 87000050--.00014231.13851601202121205.741.72
1993 BAL 25253111290--.571630152.0154113826901163583.431.26
1994 2323000570--.417631149.0158233832871081794.771.32
1995 2718000860--.571483115.2117183003650070675.211.27
1996 BOS 2310000710--.87540590.0111142721502150454.501.53
SEA 1111000620--.75029870.26691931291036263.311.20
'96計 34210001330--.813703160.2177234652793186713.981.39
1997 30302011750--.773787188.21872143271133082813.861.22
1998 34344311590--.625974234.123423422101583199923.531.18
1999 323240014800.636945228.023523481913730108983.871.24
2000 2626000131000.565678154.01732253239841103945.491.47
2001 333310020600.769851209.218724444101191084803.431.10
2002 343442213800.619931230.21982850491473089853.321.08
2003 333310021700.750897215.01991966381290083783.271.23
2004 343310071300.350888202.02174463311125101271175.211.39
2005 323210013700.650868200.02252352281023099954.281.39
2006 252521061200.333685160.0179254433823185784.391.39
PHI 880005200.71420951.1498722260025234.031.09
'06計 3333210111400.440894211.1228335155108311101014.301.32
2007 3333101141200.538867199.1222306635133201181115.011.44
2008 333300016700.696841196.119920624111233085813.711.33
2009 3025000121001.545699162.01772743110941191894.941.36
2010 19192119900.500460111.2103202006630064604.841.10
2012 COL 10100002500.28625453.275111822360040345.701.73
MLB:24年 6966383310826920901.563173564074.0423152211556914624415712207619264.251.32
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  • 各年度の太字はリーグ最高、通算成績の赤太字はMLB歴代最高

年度別守備成績

さらに見る 年 度, 球 団 ...


投手(P)












1986 CHC 16222001.000
1987 35153743.929
1988 34114513.982
1989 TEX 15514021.000
1990 33614021.000
1991 STL 805001.000
1993 BAL 25142511.975
1994 231217011.000
1995 27621041.000
1996 BOS 2331611.950
SEA 113921.857
'96計 3462532.912
1997 301434011.000
1998 34163111.979
1999 32154729.969
2000 26112711.974
2001 331727001.000
2002 34223415.982
2003 33193112.980
2004 341424031.000
2005 321828021.000
2006 2582314.969
PHI 841311.944
'06計 33123625.960
2007 33143210.979
2008 33182221.952
2009 3071910.963
2010 1921610.947
2012 COL 10311001.000
MLB 6962796442248.977
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表彰

記録

背番号

  • 49(1986年 - 1988年)
  • 39(1989年 - 1990年)
  • 41(1991年)
  • 51(1993年 - 1995年)
  • 50(1996年 - 2010年、2012年)

脚注

関連項目

外部リンク

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