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ケネス・マッケンジー・クラーク(英: Kenneth McKenzie Clark, Baron Clark OM CH KCB FBA、1903年7月13日-1983年5月21日[1])は、英国の美術史家。一代貴族のクラーク男爵、メリット勲章勲爵士(OM)、コンパニオン・オブ・オナー勲章勲爵士(CH)、バス勲章ナイト・コマンダー勲爵士(KCB)、イギリス学士院フェロー(FBA)。
ロンドン生まれ。オックスフォード大学トリニティ・カレッジで美術史を学び、1931-33年アシュモリアン博物館の美術部門の部長、1933年、30歳でナショナル・ギャラリーの館長となった。
1939年に第二次世界大戦が勃発すると英国政府は戦争芸術家諮問委員会(the War Artists' Advisory Committee, WAAC)を創設し、クラークを会長に任命した。諮問委員会創設の原動力となったのはクラークであった。その背景としては、第二次世界大戦の勃発により、商業ギャラリーが閉鎖が相次ぎ、芸術家への私的な注文が無くなり、美術学校がその教育を縮小するかまたは完全に閉鎖するにつれて、多くの芸術家は仕事をやめて収入を失っていたことがある。クラークはかなりの数のアーティストを公式の戦争芸術家として雇用するように英国政府を説得した。クラークの働きかけにより最大で200人の芸術家が雇用された。その中にはエドワード・アーディゾーニ、ポール・ナッシュ、ジョン・ナッシュ、マーヴィン・ピーク、ジョン・パイパー、グラハム・サザーランドらがいた。また、短期契約で雇用された芸術家としてはジェイコブ・エプスタイン、ローラ・ナイト、ローレンス・スティーヴン・ラウリー、ヘンリー・ムーア、スタンリー・スペンサーらがいた[2]。
1946年オックスフォード大学の教授となる。1950年退任、54年に独立テレビジョン公社の会長に就任。レオナルド・ダ・ヴィンチの研究が専門だが、美術に関するテレビを通しての啓蒙活動でも知られ、多くの著書がある。日本でも多数訳されている。1969年、一代貴族の「カウンティ・オヴ・ケントにおけるソルトウッドのクラーク男爵(Baron Clark of Saltwood in the County of Kent)」に叙され、貴族院議員となる。
主著である『ザ・ヌード』では、西洋美術史における裸体表現を「naked(はだか)」と「nude(裸体像)」という区別を通して、理想的形態についての見解を示している。
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