インターネットの歴史
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インターネットの歴史(インターネットのれきし)は1960年代のパケット通信の研究から始まる技術的な系譜で定義される。

概要
要約
視点
19世紀後半には世界中に電信網が張り巡らされ、モールス信号による低速度な符号ベースの通信が行われていた。1940年代までコンピュータは存在せず、電信局の局員によるモールス信号の打鍵あるいは交換器で遠隔地にメッセージが転送される方法がメインであったが、その時代にも電子商取引や新聞の伝言スペースへの文章投稿などは行われていた。電信の後に音声を伝達できる電話が考案され、1950年コンピュータ間の通信や端末との通信を行うようになった。インターネットを支える基本技術のひとつである、初期のパケット通信の研究が始められたのは1960年代からであり、人類の国際的な通信網の歴史からすると比較的後発である。ARPANET、イギリス国立物理学研究所のMark I、CYCLADES、メリット・ネットワーク、Tymnet、Telenetといったパケット交換ネットワークが1960年代末から1970年代初めに開発され、様々な通信プロトコルを用いていた。中でもARPANETは、複数のネットワークを相互接続し,ネットワークのネットワークを構築するインターネットワーキングのためのプロトコルの開発へと乗り出した。
1982年、インターネット・プロトコル・スイート (TCP/IP) が標準化され、TCP/IPを採用したネットワーク群を世界規模で相互接続するインターネットという概念が提唱された。ARPANETへの接続は、1981年にアメリカ国立科学財団 (NSF) がCSNET (Computer Science Network) を開発したときに拡張され、さらに1986年にNSFNETが全米各地の研究教育機関から複数のスーパーコンピュータへの接続を提供した際にも拡張された。営利目的のインターネットサービスプロバイダ (ISP) が1980年代末から1990年代に出現しはじめた。ARPANETは1990年に役目を終える。1995年にNSFNETも役目を終えると、インターネットの商業化が完了し、インターネットの営利目的の利用についての制限がなくなった。
1990年代半ば以降、インターネットは文化や商業に大きな影響を与えている。電子メールによるほぼ即時の通信、インスタントメッセージ、VoIPによる「電話」、ビデオチャット、World Wide Web とそれによるインターネットコミュニティ、ブログ、ソーシャル・ネットワーキングなどがインターネットによって可能になった。研究教育コミュニティはさらに開発を進め、NSFのvBNS (Very high-speed Backbone Network Service)、Internet2、ナショナル・ラムダレールなどの進化したネットワークを使っている。増大するデータ量が、1 Gbit/s,10 Gbit/s,100 Gbit/s,200 Gbit/s,400 Gbit/s等で動作する光ファイバー網の上でますます高速に転送される。増大するオンラインの情報・知識・商取引・娯楽などに駆り立てられ、インターネットは成長を続けている。
年表
要約
視点
インターネットの年表 |
初期の研究開発:
ネットワーク同士の接続とインターネットの創造:
商用化、民営化、接続拡大によるインターネットの変化:
主なインターネット・サービスの例:
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3つの端末とARPA
要約
視点
→詳細は「ARPANET」を参照
世界規模のネットワークを生み出すきっかけを作った先駆者J・C・R・リックライダーは、そのアイデアを1960年1月の論文 Man-Computer Symbiosis で明らかにしている。
広帯域の通信線で互いに接続された、そのような(コンピュータの)ネットワークは、こんにちの図書館のような機能(を提供する)と共に情報格納・検索などの記号的機能を進化させると期待される。—J・C・R・リックライダー、[2]
1962年8月、リックライダーとウェルデン・クラークは論文 "On-Line Man Computer Communication" を発表。ネットワーク化された未来を描いた初期の文献の1つである。
1962年10月、ARPA局長ジャック・ルイナは新たに創設した部門である Information Processing Techniques Office (IPTO) の部長としてリックライダーを雇い、シャイアン山とペンタゴンとSAC本部にあったアメリカ国防総省のメインコンピュータ同士の相互接続を命じた。そこでリックライダーはARPA内で非公式のグループを結成し、コンピュータの研究を進めさせた。IPTOスタッフへのメモで分散ネットワークを描いており、その中で部下や同僚たちを「銀河間コンピュータネットワークのメンバーと関係者」と呼んでいる。IPTOの役割の一部として、3台のネットワーク端末を設置した。1つはサンタモニカの System Development Corporation に、1つはカリフォルニア大学バークレー校の Project GENIE に、残る1つはマサチューセッツ工科大学 (MIT) のCTSSプロジェクトに接続した。この設備の無駄からリックライダーの考えるインターネットワーキングの必要性が明らかとなった。
「この3台の端末はそれぞれユーザーコマンド群が異なっていた。だから私が S.D.C. の誰かとオンラインで話をしていて、バークレーあるいはMITの誰かと話したいとき、S.D.C. との端末から離れて、別の端末にログインして連絡する必要があった。(中略)何をするのかは明らかだが、私はそんなことをしたくない。インタラクティブ・コンピューティングが可能なら、1つの端末でどこにでも接続できるべきだ。このアイデアが ARPAnet だ」
彼は1964年にIPTOを離れ、ARPANETが誕生したのはその5年後である。しかし彼のネットワークのビジョンが、ローレンス・ロバーツやロバート・テイラーといった後継者をARPANET開発へと導く原動力となった。1973年から2年間、リックライダーはIPTOの責任者として復帰している[4]。
パケット交換
→詳細は「パケット通信」を参照
問題は結局のところ、個々の物理ネットワークを連結して1つの論理ネットワークを形成する方法ということになる。1960年代、ランド研究所に在席していたポール・バランは、アメリカ軍の委託を受けて故障への耐性が高いネットワークの研究を行った。バランは転送すべき情報を「メッセージブロック」と呼ぶ単位に分割することにした。バランとは別にイギリス国立物理学研究所のドナルド・デービスが「パケット交換」と呼ぶ方式で似たようなネットワークを提案し開発しており、用語としてはこちらが定着した。レナード・クラインロック (MIT) はこの技術を支える数学的理論を構築した。パケット交換は、特に資源が限られている相互接続リンクでは、電話で使われていた回線交換技術よりも帯域利用率が高く応答時間も短かった[5]。
パケット交換は素早いストアアンドフォワード型のネットワーク設計で、メッセージを任意個のパケットに分割し、パケット毎に送信経路を決定する。初期のネットワークはメッセージ交換システムを採用しており、固定の経路構造を必要とするため単一障害点を持つ傾向があった。そのためポール・バランの研究では、ネットワークに冗長性を持たせようとした[6]。そこから、インターネットは核攻撃に耐えられるよう設計されたという都市伝説が広く流布することになった[7][8]。
インターネットの元になったネットワーク
要約
視点
ARPANET
→詳細は「ARPANET」を参照
ARPAのIPTOの責任者に昇進したロバート・テイラーは、ネットワークシステムの相互接続というリックライダーの考え方を実現しようとした。MITからローレンス・ロバーツを呼び寄せると、そのようなネットワークの構築プロジェクトを開始。最初のARPANETのリンクは、カリフォルニア大学ロサンゼルス校とスタンフォード研究所 (SRI) の間に確立された。1969年10月29日22:30のことである。
「私たちはSRIとの間に電話回線の接続を設定した…」とクラインロックはインタビューに応えて言った。「私たちは L と打ち込み、電話で尋ねた」それでも、これが革命の始まりだった…[9]
- 「L が見えるかい?」
- 「ああ、L が見える」との答えが返ってきた。
- 私たちは O と打ち込んで、訊いた。「O が見えるかい」
- 「ああ、O が見える」
- そこで G と打ち込んだところで、システムがクラッシュした…
1969年12月5日までにユタ大学とカリフォルニア大学サンタバーバラ校を加えて、4ノードを相互接続したネットワークになった。ALOHAnetで開発されたアイデアに基づき、ARPANETは急速に成長する。1981年までにホスト数は213に増え、およそ20日に1台のペースで新たなホストが接続されていった[10][11]。
ARPANETは後のインターネットの技術的中核となり、そこで使われる各種技術を開発する場となった。ARPANET開発の中心となったのは Request for Comments (RFC) プロセスであり、インターネットとなってからもプロトコルやシステムを提案し広める手段となっている。"Host Software" と題した RFC 1 は、カリフォルニア大学ロサンゼルス校のスティーブ・クロッカーが書き、1969年4月7日に公開した。このころのことは、1972年のドキュメンタリー映画 Computer Networks: The Heralds of Resource Sharing に描かれている。
ARPANETでの国際協力は、その段階ではほとんどない。いくつかの政治的理由により、ヨーロッパの開発者たちはX.25ネットワークの開発に関わっていた。例外として、1972年にノルウェー地震計アレイ (Norwegian Seismic Array, NORSAR) がARPANETに接続し、1973年にはスウェーデンのターヌム地上局が衛星通信のリンクで接続。同年イギリスのピーター・T・カースティンの研究グループも接続しており、当初はロンドン大学の計算機科学研究所だったが、後にユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンに移った[12]。
NPL(イギリス国立物理学研究所)
1965年、イギリス国立物理学研究所のドナルド・デービスが、パケット交換に基づく全国的なデータ網を提案した。政府はこの提案を採用しなかったが、1970年までにデービスは Mark I と呼ばれるパケット交換網を設計・構築し、多くの学問領域にまたがった研究で使えるようにしてその技術が実用可能であることを示した[13]。1976年には12台のコンピュータと75台の端末装置が接続され、1986年にインターネットに置き換わるまで成長し続けた。
メリット・ネットワーク
メリット・ネットワーク[14]は1966年、Michigan Educational Research Information Triad としてミシガン州の3つの公立大学でコンピュータネットワークを研究し、ミシガン州の教育や経済の発展に寄与することを目的として創設された[15]。設立資金はミシガン州とアメリカ国立科学財団 (NSF) が出し、ミシガン大学アナーバー校とデトロイトのウェイン州立大学にあったIBM製メインフレームシステム間をパケット交換網で相互接続し、1971年12月にはデモ公開した[16]。1972年10月、イーストランシングにあるミシガン州立大学のCDC製メインフレームとも接続し、三者の相互接続が完成。その後数年間で、ホスト同士の対話型接続に加えて、端末とホスト間の接続やホスト間のバッチ型接続(リモートジョブ転送、リモート印刷、バッチファイル転送)や対話型ファイル転送にも対応するよう改良を加えた。また、TymnetとTelenetとの相互接続、X.25ホスト連結装置対応、X.25データ網とのゲートウェイ、イーサネット対応などを加え、最終的にTCP/IPに対応し、ミシガン州内の他の公立大学もこのネットワークに加わった[16][17]。これら全てにより、1980年代中ごろに始まるNSFNETプロジェクトでメリットが重要な役割を演じることになる。
CYCLADES
CYCLADESパケット交換網はフランスの研究ネットワークであり、ルイ・プザンが設計し構築を指揮した。1973年に初公開。初期のARPANETとは別の設計を模索したもので、ネットワーク研究全般に対応していた。データ配送の信頼性をネットワーク自身ではなくホストの責任で保証するという考え方を初めて示したもので、「信頼できないデータグラム」とエンドツーエンドのプロトコル機構を採用している[18][19]。
X.25とパソコン通信
ARPAの研究に基づき、国際電気通信連合 (ITU) がパケット交換網の標準化を開始し、X.25 と付随する規格案が提案された。パケット通信を使っているが、X.25 は従来の電話回線をエミュレートする仮想回線という考え方で成り立っている。1974年、イギリス国内の学究機関を相互接続する SERCnet で X.25を基盤とし、それが後にJANETとなった。ITUの最初のX.25規格は1976年3月に承認された[20]。
1978年、イギリス郵政省、ウエスタンユニオン、Tymnetの3者が共同で世界初の国際パケット交換網 International Packet Switched Service (IPSS) を構築。このネットワークはヨーロッパおよびアメリカ合衆国で成長し、1981年までにカナダ、香港、オーストラリアをカバーするようになった。1990年代には世界規模のネットワーク基盤となっている[21]。
ARPANETとは異なり、X.25は主にビジネス用途で使われた。Telenet は主に企業をターゲットとして Telemail という電子メールサービスを提供していた。
公衆網内で運用される集信装置に達するために、初期のパソコン通信では非同期のTTY端末プロトコルを採用した。CompuServeなどのネットワークは、X.25を使って複数の端末のやりとりを多重化し、パケット交換バックボーンに送り込んでいた。Tymnetなどは独自のプロトコルを使っている。1979年、CompuServeは世界で初めてパーソナルコンピュータの利用者向けに電子メールサービスと技術サポートの提供を開始した。また、1980年には世界初のリアルタイムのチャットシステム CB Simulator のサービスを開始している。他の同様のネットワークとして、America Online (AOL) や Prodigy があり、同様にコミュニケーション、コンテンツ、娯楽などを提供している。また、多数の草の根BBSもオンラインアクセスを提供しており、それらBBS間のネットワークである FidoNet は趣味のコンピュータ利用者の間で人気となった。
UUCPとUsenet
1979年、デューク大学の学生トム・トラスコットとジム・エリスは、近くのノースカロライナ大学チャペルヒル校とのシリアル回線上で開発されたばかりのUUCPを使ってニュースやメッセージを転送する簡単な Bourne Shell のスクリプトを書いた。このソフトウェアを公開すると、UUCPホストで構成されるメッシュがニュースを次々に転送するようになり、ネットニュース (Usenet) が誕生した。後にこのネットワークをUUCPNetと呼ぶようになり、FidoNetとそれを構成する草の根BBSとも相互接続するようになる。このネットワークはコストがかからないため急速に広がり、電話回線、X.25の回線、さらにはARPANETも巻き込むようになる。草の根的にはじまったため、後のCSNETやBitnetに比べると明確なポリシーがない。1981年にはUUCPホスト数は550となり、1984年にはほぼ倍の940となった。
ネットワーク群の結合とインターネットの誕生 (1973–90)
要約
視点
TCP/IP

→詳細は「インターネット・プロトコル・スイート」を参照
数々のネットワーク技法が乱立しており、誰かがそれを統合する必要があった。DARPAとARPANETのロバート・E・カーンは、スタンフォード大学のヴィントン・サーフを招き、二人でこの問題を検討した。1973年、彼らの改善案の基本が完成した。それは、ネットワーク毎のプロトコルの差異を共通のネットワーク間プロトコルで隠蔽し、ARPANETのようにネットワーク自体が信頼性を保証するのではなく、ホストが信頼性を保証するというものである。サーフはこの設計について、ユベール・ジメルマン、Gerard LeLann、ルイ・プザン(CYCLADESネットワークの設計者)の業績が影響を与えたとしている[22]。
その結果生まれたプロトコルの仕様は RFC 675 – Specification of Internet Transmission Control Program として1974年12月に発表された。その中で internetworking の短縮形として internet という語が初めて使われた。その後のRFCでもこの用法を踏襲したため、この語が形容詞としてよりも名詞として定着するようになった。

ネットワークの役割を必要最小限に低減させたため、どんなネットワークでも相互接続可能となり、カーンの考えていた問題を解決することになった。DARPAはプロトタイプ版ソフトウェアの開発に資金提供することに合意し、数年後、スタンフォード研究所がサンフランシスコ・ベイエリアのパケット無線ネットワークとARPANETとのゲートウェイのデモンストレーションを行った。1977年11月22日には、ARPANET、パケット無線ネットワーク、大西洋パケット通信衛星の3つのネットワーク間のデモンストレーションを行っている[23][24]。
1974年のTCPの最初の仕様から、1978年中ごろ以降にTCP/IPがほぼ最終的な形となって出来上がった。1981年には関連標準が RFC 791, 792、793 として公表され、実際に採用された。DARPAは様々なオペレーティングシステムでのTCP/IP実装の開発を支援・促進し、保有する全ホストのパケット網をTCP/IPに移行させることを計画。1983年1月1日、ARPANETを従来のNCPプロトコルからTCP/IPプロトコルへと移行させた[25]。
ARPANETから全米規模のWANへ: MILNET, NSI, ESNet, CSNET, NSFNET
ARPANETを立ち上げて運用し続けて数年後、ARPAはそのネットワークを任せられる他の政府機関を探していた。ARPAの主たる使命は先端的な研究開発への支援であり、コミュニケーションの道具を運用することではない。1975年7月、アメリカ国防総省のアメリカ国防情報システム局が引き受けることになった。1983年、ARPANETのアメリカ軍関係部分を分離してMILNETとした。MILNETはその後、秘密ではないが軍専用のNIPRNETと、機密レベルの情報を扱うSIPRNETと、極秘レベルのJWICSとに分離された。NIPRNETには一般のインターネットとの間にセキュリティ制御されたゲートウェイがある。
ARPANETに基づくこれらのネットワークはアメリカ政府が資金を出しているため、研究などの非商用利用に制限されており、無関係な商用利用は厳しく禁止されていた。このため、当初は軍関係と大学のみが接続できた。1980年代には他の教育機関も接続されるようになり、各種研究プロジェクトへの参加や支援を理由にDECやヒューレット・パッカードといった企業からの接続も増えていった。
アメリカ合衆国連邦政府の他の機関、航空宇宙局 (NASA)、国立科学財団 (NSF)、エネルギー省 (DOE) はインターネット研究に深く関わるようになり、ARPANETの後継となるネットワーク開発を開始した。1980年代中ごろ、この3者がTCP/IPに基づく初の Wide Area Network (WAN) を構築した。NASAが構築したのは NASA Science Network、NSFが構築したのは CSNET、DOEが構築したのは Energy Sciences Network (ESNet) である。
NASAは1980年代中ごろ、TCP/IPに基づく NASA Science Network (NSN) を構築。世界中の宇宙科学者やデータおよび情報を相互接続した。1989年、DECnetに基づく Space Physics Analysis Network (SPAN) とTCP/IPに基づく NSN がエイムズ研究センターで相互接続され、NASA Science Internet (NSI) という世界初のマルチプロトコルのWANとなった。NSIは、NASAの科学コミュニティに完全に統合された通信基盤がもたらすことを目的として構築された。高速で複数プロトコル対応で国際的なネットワークである NSI は、世界中の2万人以上の科学者に接続を提供した。
1981年、NSFは CSNET (Computer Science Network) を構築した。CSNETはTCP/IPでARPANETと相互接続し、X.25上でTCP/IPを動作させているが、高度なネットワーク接続のない部門のためにダイヤルアップ式の自動電子メール交換もサポートしていた。この経験からNSFはNSFNETを構築する際にTCP/IPを採用した。56 kbit/s のバックボーンが1986年に完成し、NSFのスーパーコンピュータセンターと全米各地の研究および教育ネットワークを相互接続した[26]。ただし、その利用はスーパーコンピュータの利用のみにとどまらなかったため、56 kbit/s のネットワークはすぐさま過負荷に陥った。1988年には 1.5 Mbit/s に更新。NSFNETの存在と Federal Internet Exchange (FIX) の新設により、ARPANETの1990年の退役が可能となった。NSFNETは1991年に 45 Mbit/s へと更新され、その後商用インターネットサービスプロバイダのバックボーン群が代替するようになって1995年に退役となった。
インターネットへの移行
internet という語はTCPプロトコルに関する最初のRFCである RFC 675:[27] Internet Transmission Control Program(1974年12月)で、internetworking の省略形として使われ、同義語として使われていた。一般に internet という語はTCP/IPを使ったネットワーク全般を指す。1980年代後半、ARPANETとNSFNETが相互接続されたころ、この語はそのネットワークを指す固有名詞 Internet として使われるようになり[28]、世界規模のTCP/IPネットワークを指すことになった。
広域ネットワークへの関心が高まり、その上での新たな用途が開発されるにつれて、インターネット技術は世界中に広まっていった。基盤となる物理ネットワークを問わないTCP/IPの手法は、既存のネットワーク基盤を容易に流用でき、例えば IPSS X.25ネットワーク上でインターネットのトラフィックを転送することも容易である。1984年、ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンは大西洋横断の通信衛星リンクを TCP/IP over IPSS に置き換えた[29]。
インターネットに直接接続できない場所では、当時最も重視された用途である電子メールの転送が可能な単純なゲートウェイを設置することが多かった。常時接続できない場所では、UUCPやFidoNetを使ってゲートウェイから電子メールを転送した。一部のゲートウェイは単なる電子メールの中継に留まらず、UUCPや電子メール経由でのFTPサイトへのアクセスも提供していた。
最終的にインターネットに残っていた経路の集中する部分は除去された。ルーティングプロトコルは、EGPから新たな Border Gateway Protocol (BGP) へと置換された。これによってインターネットはメッシュ型トポロジーとなり、ARPANETの集中型構造から脱却した。1994年、アドレス空間を節約するために Classless Inter-Domain Routing (CIDR) が導入され、ルーティングテーブルの大きさを低減させた[30]。
世界規模のTCP/IPネットワークへ (1989–2000)
要約
視点
CERN、ヨーロッパ、オセアニア、アジア
1984年から1988年までに、CERNは同機構内の主なコンピュータシステム、ワークステーション、PC、加速器制御システムをTCP/IPで相互接続する作業を行った。CERNは内部ではこのネットワーク CERNET を使い、外部との接続には非互換ないくつかのネットワークプロトコルを使うという状態をしばらく続けた。当時ヨーロッパではTCP/IPの広範囲な採用にはかなりの抵抗があり、CERNのTCP/IPイントラネットは1989年までインターネットとは隔絶していた。
1988年、アムステルダムの数学・コンピュータ科学センター (CWI) の Daniel Karrenberg がCERNのTCP/IP担当者 Ben Segal を訪ね、ヨーロッパ側の(主にX.25を使用していた)UUCPネットワークをTCP/IPに移行させる件に関して助言を求めた。それに先立って1987年、Ben Segal は当時まだ小さな会社だったシスコシステムズのレン・ボサックと会いTCP/IPルーターをいくつか購入していた。そこで、Segal は Karrenberg に助言すると共にシスコのハードウェアを勧めた。これによってヨーロッパでのインターネットは既存のUUCPネットワーク上で広がり、1989年にCERNがTCP/IPで外部と接続されることになった[31]。それと同時にRIPE (Réseaux IP Européens) が結成された。RIPEはIPネットワーク管理者のグループで、定期的に会合を開いて共同作業していた。1992年、RIPEはアムステルダムで協同組合として正式に登録されている。
ヨーロッパでインターネットが広がりを見せつつあったころ、オーストラリアでは X.25 や UUCP などの様々な技術を使い、国内の大学間やアメリカとの場当たり的なネットワークを形成しつつあった。国際電話もX.25の国際的専用線も高価だったため、世界的なネットワークとの接続は限定的だった。1989年、オーストラリアの大学群が共同でIPプロトコルへの移行を推進し、ネットワーク基盤の統合を行うこととした。同年、AARNetを結成し、オーストラリアでのIP専用ネットワークの基盤となった。
アジアでは1980年代後半にインターネットが浸透しはじめた。日本では、1984年にUUCPのネットワークであるJUNETを構築し、1989年にNSFNETと接続した。1992年にはインターネット協会の会合である INET'92 を神戸市で開催している。シンガポールは1990年にTECHNETを構築、タイでは1992年にチュラーロンコーン大学がUUNETとインターネット接続したのが最初である[32]。
国際的な情報格差
→詳細は「情報格差」を参照
技術基盤を持つ先進国がインターネットに参加する一方で、開発途上国はインターネットに参加できず、情報格差を経験しはじめていた。基本的に大陸ごとに、開発途上国はインターネットのリソース管理のための組織を結成し、共同で通信基盤の拡充を進めていった。
アフリカ
1990年代初めごろ、アフリカ諸国は X.25 IPSS に依存しており、2400bpsのモデムでUUCPを使って海外と接続していた。
1995年8月、ウガンダのカンパラで InfoMail Uganda, Ltd.(現在のInfoCom)が創業。1997年、コロラド州エイボンの NSN Network Services を買い取って Clear Channel Satellite とし、アフリカ初のTCP/IP高速衛星通信インターネットサービスを開始した。当初はロシアの衛星会社RSCCのCバンドを使って、カンパラとコロラド州を直接繋ぎ、そこからニュージャージー州まで専用線で接続していた。当初の衛星接続は 64 kbit/s しかなく、サンのホストコンピュータ1台とUSロボティクスのダイヤルアップ・モデム12台で運用していた。
1996年、USAIDの Leland initiative により、アフリカ大陸でのインターネット接続の開発を促すプロジェクトが始まった。1997年にはギニア、モザンビーク、マダガスカル、ルワンダに衛星通信の地上局が建設され、1998年にはコートジボワールとベナンが続いた。
アフリカでは今もインターネット基盤の構築が続いている。モーリシャスに本部のあるAfriNICが、大陸全体のIPアドレス割り当てを管理している。他の地域と同様、運用に関するフォーラムである Internet Community of Operational Networking Specialists がある[33]。
高速通信施設を建設する計画や大西洋岸から光ケーブルを海底に敷設する計画などがいくつかある。北アフリカとアフリカの角は高速ケーブルで大陸間のケーブルシステムに繋がっている。東アフリカでの海底ケーブル敷設は比較的ゆっくりしている。アフリカ開発のための新パートナーシップ (NEPAD) と East Africa Submarine System (Eassy) が共同開発を計画していたが破綻し、それぞれ独自に行う可能性がある[34]。
アジア・オセアニア
Asia-Pacific Network Information Centre (APNIC) はオーストラリアに本部があり、この地域のIPアドレス割り当てを管理している。APNICが後援する運用者フォーラムとして Asia-Pacific Regional Internet Conference on Operational Technologies (APRICOT) がある[35]。
1991年、中華人民共和国初のTCP/IP大学ネットワーク TUNET が清華大学で運用開始した。中華人民共和国とインターネットとの最初の相互接続は1994年のことで、Beijing Electro-Spectrometer (BES) Collaboration とスタンフォード大学の線型加速器センターを繋いだものである。しかし、中国は国全体でインターネットのコンテンツにフィルターをかけている(中国のネット検閲)[36]。
ラテンアメリカ
他の地域と同様、Latin American and Caribbean Internet Address Registry (LACNIC) がIPアドレス空間や他のリソースを管理している。LACNICはウルグアイに本部があり、ルートサーバの運用なども行っている。
商用利用の開始
インターネットの商用利用への関心は、熱く討論される話題となってきた。商用利用は禁止されていたが、「商用利用」の明確な定義はなかった。UUCPNet と X.25 IPSS にはそのような制限はなく、ARPANETおよびNSFNETでのネットニュースの使用が公式には禁止されるという結果を招いた。ただし、管理者が目をつぶったため、一部のUUCPリンクが存続した。

1980年代末、最初のインターネットサービスプロバイダ (ISP) が創業。PSINet、UUNET、Netcom、Portal Software といった企業が出現し、地域の研究ネットワークへのサービスや代替ネットワーク接続手段を提供し、一般へのUUCPによる電子メールとネットニュースの接続手段を提供した。アメリカ合衆国での最初の商用ダイヤルアップISPは The World で、1989年に運用開始した[37]。
1992年、米連邦議会が Scientific and Advanced-Technology Act(科学および先端技術法案、合衆国法典第42編第1862(g)条 42 U.S.C. § 1862(g))を可決した。それによってNSFは研究教育コミュニティが研究教育目的専用でないコンピュータネットワークに接続することを支援可能となり、そのためNSFNETを商用ネットワーク群と相互接続することが許可された[38][39]。商用利用を許すとインターネットに必要とされる応能が失われるのではないかという懸念があり、研究教育コミュニティ内で論争が起きた。また、商用ネットワークプロバイダの間でも、政府補助金が一部組織に有利になるような不公平な配分をされるのではないかという疑念が生じた[40]。
1990年、ARPANETは新しいネットワーク技術に置換され、プロジェクトは終了した。PSINet、Alternet、CERFNet、ANS CO+RE など多数の新たなネットワーク・サービス・プロバイダが商用利用者にネットワークへの接続を提供していた。NSFNETはもはやインターネットの唯一の基盤ではなくなっていた。Commercial Internet eXchange (CIX) と Metropolitan Area Exchange (MAE)、さらに後には Network Access Point (NAP) がネットワーク間の主要な相互接続ポイントとなった。1995年4月30日、NSFがNSFNETのバックボーンサービスの後援を終了した時点で、最後の商用利用制限が撤廃された[41][42]。NSFはNAPの立ち上げを支援し、地域の研究教育コミュニティが商用ISPに乗り換えるのをしばらくの間支援した。NSFはまた vBNS (very high-speed Backbone Network Service) を後援しており、スーパーコンピュータセンター群とアメリカ国内の研究教育機関の相互接続支援を継続した[43]。
もう1つの重要な出来事として1994年1月11日にUCLAの Royce Hall で開催された The Superhighway Summit がある。これは「この分野の企業・政府・学界の主要なリーダーが一堂に会した初の公式な会議であり、情報スーパーハイウェイ構想とその意味について国家的議論を開始した」ものである[44]。
Internet Engineering Task Force
→詳細は「Internet Engineering Task Force」を参照
Internet Engineering Task Force (IETF) は、インターネット技術の設計や進化に貢献しているボランティアによる、緩やかかつ自律的に組織されたグループである。インターネットの新しい規格の仕様を開発する主要な団体である。作業部会(ワーキンググループ)でほとんどの作業を行っている。色々な間違った捉え方をされているが「インターネットを運営」しているわけではない。IETFはインターネット利用者がよく採用している規格を策定しているが、インターネットを制御したり、ましてや監視したりしているわけではない[45][46]。
IETFは1986年1月、アメリカ政府が資金提供している研究者らの四半期ごとの会議として始まった。1986年10月の第四回会議で、政府とは無関係の代表者が招かれるようになった。1987年2月の第五回会議で、作業部会の概念が導入された。1987年7月の第七回会議には、初めて100名以上が参加している。1992年に専門家の会員制団体インターネット協会が創設され、IETFはその下で独立国際標準化団体として運営されるようになった。IETFの会議がアメリカ合衆国以外で最初に開催されたのは1993年7月、オランダのアムステルダムでのことである。2012年現在、IETFは年に3回の会議を開催しており、1,300名以上が参加することが多いが、多くても2,000名以下である。一般に3回に1回はヨーロッパかアジアで会議を開催している。アメリカ合衆国以外の参加者がおよそ50%であり、アメリカ合衆国内で開催される場合でもその比率は変わらない[45]。
IETFは出来事の集合体として存在しているという点で普通ではなく、企業でもないし、取締役会も持たないし、会員制でもないし、会費も徴収していない。IETFに参加する近道は、IETFまたは作業部会のメーリングリストに参加することである。IETFのボランティアは、世界中から、そしてインターネットコミュニティの様々な部分から集まっている。IETFは Internet Engineering Steering Group (IESG)[47] と インターネットアーキテクチャ委員会 (IAB)[48] と密接な関連があり、それらの監督下にあるとも言える。Internet Research Task Force (IRTF) と Internet Research Steering Group (IRSG) はIETFとIESGと共にIABの監督下にあり、長期的な研究課題を扱っている[49][45]。
Request for Comments
→詳細は「Request for Comments」を参照
Request for Comments (RFC) は、IAB、IESG、IETF、およびIRTFの成果の主要な文書群である。RFC 1 "Host Software" は、UCLAのスティーブ・クロッカーが1969年4月に書いたもので、IETFが誕生する以前のことである。それは本来ARPANET開発に関して文書化した技術メモであり、今はなきジョン・ポステルがそのころのRFC編集者を務めていた[45][50]。
RFCは様々な情報をカバーしており、「標準化への提唱」、「標準化への草稿」、「標準」、「現状での最良の慣行」、「実験的プロトコル」、「歴史」、その他の「情報」などがある[51]。RFCは個人や非公式のグループでも書けるが、多くはより公式な作業部会が作成する。ドラフト版を個人または作業部会の議長がIESGに提出する。IABに任命されたRFC編集者がIESGと共同で作業し、IESGから受け取ったドラフト版を編集し書式を整えて公表する。一度RFCとして公表されると、決して改訂されない。そのRFCが記述している規格を変更する場合や内容が古くなった場合、改訂版の規格や更新された情報は別のRFCとして公表され、以前のRFCは "obsolete" となる[45][50]。
NIC, InterNIC, IANA, ICANN
→詳細は「Internet Assigned Numbers Authority」および「ICANN」を参照
インターネットの活動を調整する中心的権限を最初に担ったのは、カリフォルニア州メンローパークのスタンフォード研究所 (SRI) のネットワークインフォメーションセンター (NIC) だった。1972年、その業務は新たに創設された Internet Assigned Numbers Authority (IANA) が引き継いだ。ジョン・ポステルはRFC編集者としての役割と同時に、1998年に亡くなるまでIANAの責任者として働いた。
ARPANETが成長すると共に、ホストを名前で参照するため、SRIインターナショナルからネットワーク上の各ホストに HOSTS.TXT というファイルが配布されていたが、ネットワークがさらに拡大すると、この作業が面倒になってきた。これを解決する技術的手段が Domain Name System であり、ポール・モカペトリスが考案した。アメリカ国防総省との契約によりSRIの国防情報網ネットワークインフォメーションセンター (DDN-NIC) があらゆる登録サービスを取り扱い、.mil, .gov, .edu, .org, .net, .com, .us というトップレベルドメイン (TLD) の管理、ルートサーバの管理、インターネットの番号割り当てを行った[52]。1991年、アメリカ国防情報システム局 (DISA) は、それまでSRIが行っていたDDN-NICの管理と保守を Government Systems, Inc. に引き継がせ、そこからさらにネットワーク・ソリューションズが下請けとして実際の業務を行うことになった[53][54]。
そのころ、インターネットの成長の大部分は軍とは無関係なところに起因していた。そのためアメリカ国防総省は .mil TLD 以外について登録サービスの資金を提供しないことを決定する。1992年の競争入札を経て、1993年にアメリカ国立科学財団がアドレス割り当てとアドレスのデータベース管理を行うInterNICを創設し、3つの組織とその運用契約を結ぶ。登録サービスはネットワーク・ソリューションズ、ディレクトリおよびデータベースサービスはAT&T、情報サービスは General Atomics が提供することになった[55]。
1998年、IANAとInterNICは組織改編され、ICANNの監督下に置かれることになった。ICANNはカリフォルニアの非営利団体で、アメリカ合衆国商務省との契約によりインターネット関連のいくつかの業務を行っている。DNSシステムの運用は民営化され、市場原理に任されているが、名前の登録は入札ベースで請負契約され集中管理されている。
国際化と21世紀
→詳細は「インターネットガバナンス」を参照
1990年代以降、インターネットの統治と組織は商取引にとっても世界的重要性を持っている。インターネットの技術的側面を制御している組織は、古いARPANETを監督していた組織の後継組織と、ネットワークの日常の技術的側面において意思決定を行っている現行組織とがある。ネットワークの管理者として正式に認められている一方で、彼らの役割と決定は国際的に監視・反対されることで制限されている。そういった反対意見により、ICANNはまず2000年に南カリフォルニア大学との関係を断ち切り[56]、最終的に2009年9月には長期に渡っていたアメリカ政府との協定の終了で自律性を増した。ただし、アメリカ商務省との契約上の義務は少なくとも2011年まで続いていた[57][58][59]。インターネットの歴史は、多くの点でICANNが組織としてなす結果によって刻まれていくことになる。
インターネットに関連した標準を形成する役割において、IETFは場当たり的な標準化グループとして機能し続ける。例えば、APRANET時代から番号順に発行され続けている Request for Comments を発行し続ける。IETFの前身である GADS Task Force は、1980年代にアメリカ政府から資金提供されていた研究者のグループだった。最近では世界的な必要性による標準化が多く、例えばi18n作業部会は国際化ドメイン名の標準化などを行っている。インターネット協会はIETFを資金面で支援し、ある面では監督的役割も果たしている。
将来: 地球外へ広がるインターネット (2010年以降)
地球を周回する低軌道にインターネットのリンクが最初に確立されたのは2010年1月22日のことで、宇宙飛行士 T. J. Creamer が初めて国際宇宙ステーションから自力でTwitterに投稿を行った。これによりインターネットは宇宙へと広がったことになる。それ以前にも国際宇宙ステーションでは電子メールやTwitter(現在のX)を使っていたが、従来はNASAのデータリンクで地上に転送し、地上の人間が投稿や電子メールの送信を代行していた。このWebアクセスはNASAが Crew Support LAN と呼ぶ宇宙ステーション内のLANを経由して、高速なKuバンドマイクロ波リンクを使って地上と接続している。Webを閲覧する場合、宇宙飛行士はステーション内のノートパソコンを使って地上のデスクトップコンピュータを制御でき、VoIPを使って地上の家族や友人と話をすることもできる[60]。
地球周回軌道より遠くの宇宙船との通信は、ディープスペースネットワークを通した1対1のリンクで行われてきた。そういったデータリンクは人手でスケジュールし設定する必要がある。1990年代末ごろNASAとGoogleは新たなネットワークプロトコルである遅延耐性ネットワーク (DTN) の研究を行ってきた。DTNは一連の手順を自動化し、宇宙空間に送受信ノードを配置したネットワーク形成を可能にし、そういったノードが天体の影に隠れたり宇宙線の影響などで一時的に通信できなくなることを考慮した技法である。通常のTCP/IPプロトコルではノードが応答しなくなれば通信できないものとしてしまうが、DTNではデータパッケージの再送を試みる。2008年11月、NASAは "deep space internet" と称するこの技術の最初の実地試験を行った[61]。このネットワーク技術は、宇宙船と地球の通信のみならず、複数の宇宙船が参加するミッションでの宇宙船間の高信頼通信を可能にすると見られている。
利用と文化
要約
視点
電子メールとネットニュース
電子メールはよくインターネットのキラーアプリだと言われてきた。しかし、インターネット以前から電子メールはあり、インターネット誕生にあたっても電子メールは不可欠の存在だった。電子メールは1965年、メインフレームのタイムシェアリングシステムで複数の利用者間のコミュニケーションに使われ始めた。そのころの歴史は不明瞭だが、そのころ電子メール機能を備えていたシステムとしてSDCのQ32やMITのCTSSがある[63]。
ARPANETは電子メールの進化に大きく貢献した。あるレポートによれば[64]、ARPANETの誕生直後にシステム間の電子メール転送の実験が行われたという。1971年、レイ・トムリンソンは後にインターネットのメールアドレスの形式となるフォーマット、すなわちアットマークでユーザ名とホスト名を分ける形式を生み出した[65]。
電子メールの配送に関しては、インターネット以前からタイムシェアリングシステムのコンピュータ間で使うプロトコルがいくつか開発された。例えば、UUCPやIBMのVNET電子メールシステムがある。電子メールの転送はそういった方法で、ARPANET、Bitnet、NSFNETといったネットワーク間で転送され、UUCPで相互接続されたホスト間でも同様に転送されていた。
さらにUUCPは文書ファイルを多くの人に読んでもらうよう公開するのにも使われた。1979年、トム・トラスコットとジム・エリスがシェルスクリプトで書いたネットニュースのプログラムをトム・トラスコットとスティーブ・ダニエルがコンパイルして使用する普通のプログラムに書き換え、それが広く使われることになる。そこにニュースグループと呼ばれる議論グループが生まれ、様々な主題が議論されるようになった。ARPANETとNSFNETでは同様の議論グループはメーリングリストを使う形で誕生し、技術的問題やより文化的な話題が扱われた(サイエンス・フィクションのメーリングリスト sflovers など)。
インターネット黎明期、電子メールと類似の機構はオンライン接続できない人々がリソースにアクセスするのに必須だった。UUCPはファイルの配布にもよく使われ、alt.binary などのニュースグループがその用途に使われていた。また、アメリカやヨーロッパ以外の人々がファイルをダウンロードするために、FTPメールが使われた。これは既知のゲートウェイに対してFTPコマンド列を記した電子メールを送ってFTPの実行を代行してもらい、ダウンロードしたファイルを符号化・断片化して電子メールで送り返してもらうサービスである。受け取った後は、メールの内容を繋ぎ合わせ、デコードする必要がある。初期のLinuxのソースコードなどは、低速なインターネット接続しかない場合、この方法でダウンロードするしかなかった。WebとHTTPが一般化するにつれて、そのようなツールは徐々に使われなくなっていった。
GopherからWWWへ
→詳細は「World Wide Web」を参照
1980年代から1990年代初めにかけてインターネットが成長するにつれて、ファイルや情報を整理して見つけやすくする必要性が徐々にわかってきた。Gopher、WAISといったプロジェクトやFTPアーカイブの一覧を作るといった試みは分散して存在するデータを組織化するために行われた。しかし、これらの試みはあまり成功したとは言えない。
このころ最も注目されたユーザインタフェースパラダイムがハイパーテキストである。ヴァネヴァー・ブッシュの「Memex」に触発され[66]、テッド・ネルソンのザナドゥ計画やダグラス・エンゲルバートのNLSの研究で開発された[67]。小規模の自己完結型ハイパーテキストシステムはいくつも開発されており、例えばアップルの HyperCard (1987) がある。Gopherはインターネット上で広く使われた最初のハイパーテキスト型インタフェースとなった。Gopherのメニューはハイパーテキストと言えるが、当時一般にはそう認識されていなかった。

1989年、CERNに勤務していたティム・バーナーズ=リーはハイパーテキストの概念をネットワーク上で実装したものを発明した。これを無償で公開したため、広く使われる技術となった[68]。World Wide Web (WWW) の発展をもたらした業績により、バーナーズ=リーは2004年のミレニアム技術賞を受賞[69]。初期の人気のウェブブラウザの1つとして、HyperCardにならって作られたViolaWWWがある。
World Wide Web の潜在的可能性のターニングポイントとなったのは、1993年のMosaicウェブブラウザ[70]の登場[71]であった。Mosaicはイリノイ大学アーバナ・シャンペーン校の米国立スーパーコンピュータ応用研究所 (NCSA-UIUC) でマーク・アンドリーセンの率いるチームが開発したグラフィカルなブラウザである。Mosaicの開発資金は、1991年高性能計算・通信法 (en) 、別名「ゴア法案」に基づく「高性能計算・通信イニシアティブ」から出されていた[72]。実際、間もなくMosaicのグラフィカルなインタフェースは当時基本的にテキストベースだったGopherより人気となり、WWWがインターネットにアクセスする際の最も好まれるインタフェースとなった。アル・ゴアは「私がインターネットを作った」と自分の役割を強調したが、2000年アメリカ合衆国大統領選挙でのネガティブキャンペーンの材料にされた(詳しくは en:Al Gore and information technology を参照)。
Mosaicは1994年、スピンアウトしたアンドリーセンのNetscape Navigatorに世界で最も使われているウェブブラウザの座を奪われた。その後1997年からWindows 98と抱合せで配布されたInternet Explorerがバージョン4にて逆転し、他の様々なウェブブラウザも登場すると後継をMozilla Firefoxに譲りNetscapeは2008年を最後に消えていった。2014年3月現在のシェアは、パソコン向けではGoogle Chromeが調査によっては首位もしくは2位となり, モバイル向けではSafariが首位である[73][74]。
検索エンジン
→詳細は「検索エンジン」を参照
World Wide Web が登場する以前から、インターネット上の情報を組織化する検索エンジンが存在した。初期の例としてマギル大学で1990年に開発されたArchie、1991年のWAISとGopherがある。これら3つのシステムは World Wide Web 以前に開発されたものだが、その後 Web も含めて検索対象として何年か存続し続けた。2006年時点でもGopherのサーバは存在していたが、当然ながらWebサーバの方が多数存在していた。
Webの発展と共に、Web上のページを追跡し目的のページを探し当てるための検索エンジンとウェブディレクトリが作られていった。最初の全文検索型のウェブ検索エンジンとしては、1994年のWebCrawlerがある。それまでの検索エンジンはウェブページのタイトルだけを検索していた。他の初期の検索エンジンとしては1993年に大学のプロジェクトで開発されたLycosがあり、検索サイトとして初めて商業的成功を収めた。1990年代後半、ウェブディレクトリではYahoo!(1994年創業)、検索エンジンではAltaVista(1995年創業)がそれぞれ人気となった。2001年8月までにGoogle(1998年創業)が人気を集めるようになり、ウェブディレクトリ方式は検索エンジン方式に負け始めた。Google検索は適合性ランキングの新たな技法を採用していた。ウェブディレクトリは今でも使われているが、検索エンジンの検索結果をベースにするようになっている。
2000年代初めはデータベースサイズが検索エンジンの重要なマーケティング機能だったが、それが検索結果を検索キーワードとよく適合するものから順にソートして表示するという適合性ランキングの強調で置換された。適合性ランキングはまず1996年ごろに大きな問題として取り上げられ、当時は検索結果全体について順位付けするのは現実的でないとされていた。その後、適合性ランキングのアルゴリズムは洗練されていった。Googleのページランク方式はよく引用(リンク)されているページほど適合性が高いとするのが基本だが、主要な検索エンジンはいずれも結果の表示順序を改善する技法を改良し続けている。2006年の時点で、検索エンジンにおけるランキングは極めて重要になっており、検索エンジン最適化と呼ばれる検索ランキングを上げる技法をウェブ開発者が使うようになっている。一部の検索エンジンではランキング上位に表示される権利が販売対象になっており、司書や消費者運動家などの間で議論となった[75]。
2009年6月3日、マイクロソフトは新たな検索エンジンBingを立ち上げた[76]。翌月マイクロソフトとYahoo!は、Yahoo!が検索エンジンとしてBingを採用することで合意したと発表した[77]。
インターネット・バブル
→詳細は「インターネット・バブル」を参照
突然世界中の数百万人に低コストで情報を届けられるようになり、広告、通信販売、顧客関係管理など様々な分野で従来の商慣習を打ち破る可能性が生まれた。ウェブは新たなキラーアプリとなり、シームレスな低コストの方法で従来出会うはずのなかった買い手と売り手を1カ所に集めることができると考えられた。世界中の夢想家たちが新たなビジネスモデルを考案し、近場のベンチャーキャピタルへと駆け込んだ。ビジネスや経済学の知識を持った新しい起業家は一部であり、大多数は単にアイデアをもっているだけで、資本流入を慎重に管理することができなかった。さらに、多くの事業計画はインターネットを活用することを前提とし、既存の流通経路とは競合しないだろうと仮定していた。もともと強力なブランドを持つ企業がインターネット上にも進出すると、インターネット上の新興企業は太刀打ちできなかった。
インターネットバブルは2000年3月に最高潮に達した。3月10日にはNASDAQの指数は5,048.62という終値(日中最高値は5,132.52)を記録し[78]、1年前の倍になった。2001年にはバブル崩壊の影響が急速に進行する。多くの新興企業が利益を出すことなく、集めた資金を消費して消えていった。それにも関わらず、商用利用に牽引されてインターネットはその後も成長を続けている。
オンライン人口予測
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JupiterResearch の調査研究によれば、オンラインアクセスする人口が38%増加すると仮定すると、2011年には全人口の22%の人々が定期的にインターネットを利用することになるだろうとしている。そのレポートでは、11億人の人々が定期的にウェブにアクセスしているという。なお、JupiterResearch の研究では携帯電話からのアクセスは含めていない.[79]。
携帯電話とインターネット
インターネット接続可能な最初の携帯電話は、1996年フィンランドで発売されたNokia 9000 Communicatorである。携帯電話の価格がさらに下がり、ネットワークプロバイダが携帯電話から便利にアクセス可能なシステムやサービスを始めるまで、携帯電話向けインターネットサービスへのアクセスはあまり広がらなかった。日本ではNTTドコモが1999年に携帯向けインターネットサービスであるiモードを開始したのが、携帯電話向けインターネットサービスの最初とされている。2001年、リサーチ・イン・モーション が同社のBlackBerry向けの電子メールシステムをアメリカで立ち上げた。片手で操作するのが一般的な携帯電話で小さな画面とキーパッドを効率的に使うため、携帯電話向けの文書やネットワークのモデルとして Wireless Application Protocol (WAP) が策定され、多くの携帯電話向けインターネットサービスで採用されている。まず日本・韓国・台湾といった東アジア諸国で、携帯電話向けインターネットサービスが成長した。その後、通常のインターネット普及が遅れていた開発途上国、インド・南アフリカ・ケニア・フィリピン・パキスタンといった国々で携帯電話向けインターネットサービスが普及する。ヨーロッパや北アメリカではパーソナルコンピュータによるインターネットアクセスが普及していたため、携帯電話からのインターネットアクセスの伸びはややゆっくりとしていた。2008年には、インターネットに接続する機器の台数で携帯電話がPCを追い越した。開発途上国の多くでは、PC利用者1人に対して携帯電話利用者10人という比率になっている[80]。
携帯電話の加入数は2014年で約89億に達しており、人口普及率は約100%に達している[81]。インターネットの利用者数についても2001年からの23年で、4億9,500万人から55億2,680万人に増加し、人口普及率では67.4%に達している[82]。
歴史学的観点
インターネットの歴史に関する歴史学的懸念が生じている。特に初期のインターネット発達に関わる文献を見つけることが困難とされている。これは、文書を集中的に保管してこなかったことも一因である。
ARPANETの時代については、関わっていた主要企業の1つであるBBNテクノロジーズが物理的記録を残しているため、比較的文書が整っている。NSFNETの時代になると、極めて分散化されたプロセスとなった。記録は関係者の自宅の地下室やクローゼットに存在している。(中略)多くの事が口頭で行われ、個人の信頼に基づいて行われた。—Doug Gale (2007)、[83]
脚注・出典
参考文献
関連項目
外部リンク
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