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ブラックパンサー党(英: Black Panther Party, BPP)あるいは日本語で黒豹党(くろひょうとう)は、1960年代後半から1970年代にかけてアメリカで黒人民族主義運動・黒人解放闘争を展開していた急進的な政治組織。1966年、カリフォルニア州オークランドにおいてヒューイ・P・ニュートンとボビー・シールにより、都市部の貧しい黒人が居住するゲットーを警察官から自衛するために結成された。共産主義と民族主義を標榜しており、革命による黒人解放を提唱し、アフリカ系アメリカ人に対し武装蜂起を呼びかけた。また、貧困層の児童に対する無料の食事配給や、治療費が無料の「人民病院」の建設を行った。日本では、かつて新聞などで「黒豹党」と呼ばれることが多かった。
1965年、公民権運動を指導していたマルコム・Xの暗殺後に活動を開始し、1968年、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアが暗殺されてから活動は盛り上がりを見せた。
1965年、ニュートンとシールは、オークランドに支部を持つ、ロバート・F・ウィリアムズ率いる公民権運動団体「革命的行動運動(Revolutionary Action Movement、RAM)」に加入した。ウィリアムズは初めはノースカロライナ州、のちに中華人民共和国から「クルセイダー」という機関紙を出していた。この組織は暴力的だと見られており、1965年、東海岸の党員が、ニューヨークの自由の女神像や自由の鐘、ワシントン記念塔を爆破しようとして起訴されている。
オークランド支部の構成員のほとんどは学生で、そのうちニュートンとシールは最も戦闘的な意見を持っていた。この間、オークランド市北部の貧困対策センターで働いていた2人は市当局に対し、警察官の暴力行為について調査する委員会を置くよう、500人の署名を集めた。また、この頃ニュートンは市立メリット・カレッジとサンフランシスコ・ロー・スクールで法学を学んでおり、ここで得た法律の知識は後に党での活動に役立つこととなった。このような活動の中で2人は同志を集め、1967年、ブラックパンサー党を結成した。このとき、彼らは党の目標を示した十項目綱領を作り、ヒューイの弟メルヴィンの提案で、アフロヘアーにし、ユニフォームとして黒い革のジャケットとズボン、黒いベレー帽を着用し、ショットガンで武装することを決めた。
BPPは、戦闘的な面ではマルコム・Xの暴力主義を受けつぎ、マーティン・ルーサー・キングの非暴力主義を否定していた学生非暴力調整委員会(SNCC)のストークリー・カーマイケルを一時期、党の主席に迎えたが、思想などの面で意見が合わず、離党した。非暴力主義には批判的であったが、キング牧師個人には尊敬の念を抱いていた。
シールやニュートンら指導部は共産主義の影響を受けており、マルクスやエンゲルス、レーニン、スターリン、チェ・ゲバラ、フランツ・ファノンらの思想に共鳴していたが、とりわけ毛沢東から大きな影響を受け、のちにヒューイら指導者が中国を訪問している。ただしマルクスがルンペンプロレタリアートの反動的な性格を指摘していたのに対し、ニュートンらはルンペンを社会主義革命の中心と見なしていた。
彼らはアメリカ合衆国における黒人社会を第三世界、植民地と見做し、合衆国と敵対関係にあったベトナムや朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)、キューバといった国々に対して連帯の意思を表明していた。また、アメリカ統治下の沖縄にも駐留米軍内部に党員が存在し[1]、日本本土にも、「黒豹党支援日本委員会」という団体があった。
ニュートンやシールは、彼らの標榜する民族主義を「革命的民族主義」と定義し、搾取的な面を持つ「反動的民族主義」と区別している。ニュートンによれば、「革命的民族主義」は、全世界の被抑圧民族との連帯および帝国主義との闘争を目的としたもので、「反動的民族主義」は別のものである。ブラックパンサー党はアジア、アフリカ、ラテンアメリカそしてアメリカ合衆国国内の被差別民族との連帯を宣言し、彼らの思想を「インターコミューナリズム」と名づけ、機関紙「ザ・ブラック・パンサー」に、海外の闘争を紹介する「インターコミューナル・ニュース」を掲載した。
BPPはスウェーデンのストックホルムに「海外局」を設置し、一部の党員はアルジェリアやキューバに亡命した。1970年には南ベトナム解放民族戦線に対し、義勇兵の派遣を申し入れている。国内では、アメリカインディアンの権利団体「アメリカインディアン運動」や、合衆国本土に移住したプエルトリコ人の自衛組織ヤングローズや中国系アメリカ人の政治団体紅衛党、チカーノによるブラウンベレー、プアホワイトと呼ばれる白人貧困層の政治団体ヤングパトリオット、イッピーと呼ばれた白人青年ラディカルの青年国際党、学生を中心とする民主的社会のための学生同盟(SDS)といった左派の組織と連帯して反差別、反戦闘争を闘った。女性解放を目的とするフェミニズム運動やLGBTの地位向上を目指すゲイ解放戦線(Gay Liberation Front)とも連帯した。
党の結成直後、次の項目が決定された。
毛沢東語録に影響を受けたヒューイ・P・ニュートンら党指導部は、1968年頃から党員に「人民に奉仕せよ」と指示し、黒人をはじめとする貧困層の人々に対する社会奉仕活動を開始した。
まず、栄養が不十分な貧困層の児童に対し、朝食を無料で配給する「無料朝食プログラム」を開始した。これにより、延べ1万人の児童が朝食を得ることができた。
また、治療費が無料の「人民病院」を建設し、鎌状赤血球症の調査を行い、50万人の人々が鎌状赤血球症に罹患していることを明らかにし、応急処置など治療も行った。
1968年、党員数は当初の400人から5000人以上に達し、全米に40の支部が置かれ、機関紙「ザ・ブラック・パンサー」は40万部以上が発行された。当初BPPは、警察官によるゲットーの人々への暴行に対する自衛を目的に、銃と六法全書を携行して警察官に対する逆パトロールを行った。
1967年5月2日、30名の党員が銃を持ってカリフォルニア州サクラメントの州議会前で演説した後で中に入り、逮捕された。このとき、州議会ではブラックパンサーによる逆パトロールの取締りを目的とした銃の規制を審議していた。
J・エドガー・フーバー率いる連邦捜査局(FBI)は危機感を抱き、ブラックパンサーに対する弾圧を開始した。4月7日、オークランドにおいて、翌日に予定されていたピクニックの買い物をしていた17歳の党員ボビー・ハットンが警察官に襲われ、射殺された。このときハットンは丸裸になり、武装していないことを警察官に示そうとしたが、聞き入れられなかった。
1969年、議長ボビー・シールが6人の党員とともにシカゴで逮捕され、16の罪状によって起訴され、懲役4年の刑を宣告された。1971年には、1968年に起こった警察官殺害の罪で起訴されたが、不起訴処分とされた。ボビーは獄中で手記「時代を獲得せよ」を出版した[2]。12月4日、イリノイ州クック郡において、地元警察とFBIがイリノイ州議長フレッド・ハンプトンの自宅を襲撃し、射殺した。
1970年4月2日、ニューヨークで21人の党員が、警察官殺害とビル爆破の陰謀を企てたとして逮捕された。5月22日には、女性党員エリカ・ハギンズら8人がコネティカット州ニューヘイブンで起きた殺人事件の容疑者として逮捕された。参謀長のデイヴィッド・ヒリアードがベトナム反戦集会において当時のアメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンに対する闘争の開始を扇動し、大統領暗殺未遂の罪で逮捕された。
これに先立つ1968年、党情報相のエルドリッジ・クリーヴァーが思想の違いからBPPを離脱し、党はシール・ニュートン派とクリーヴァー派に分裂した。
1970年8月ニューヨークで、BPPの分派である黒人解放軍に所属していた青年3名がパトロール中の警察官2名を狙撃し、銃撃戦の末黒人1名が死亡する事件が発生した。また同年10月にはデトロイトで党員が警察官と銃撃戦を展開するなどBPP側は反撃を試みている。
やがて、ニクソン政権の執拗な弾圧により党員が次々と逮捕され、1971年には政治的に柔軟化し、以後は地域社会における奉仕活動に専念し1970年代半ばにはほぼ党は解散していた。その後、クリーヴァー派の黒人解放軍が銃撃戦や爆弾攻撃、脱獄などで1980年代初頭まで抵抗を続けた。
黒人解放軍の解体後、1989年に「新ブラックパンサー党(New Black Panther Party)」が結成され、かつてのブラックパンサー党の後継者であると主張しているが、旧ブラックパンサー党が標榜していた共産主義や毛沢東主義ではなく反白人・反ユダヤ主義を標榜している。
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