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アリューシャン方面の戦い(アリューシャンほうめんのたたかい)は、太平洋戦争(大東亜戦争)中、日本軍と連合国軍(アメリカ軍とカナダ軍)の間でアリューシャン列島周辺で行われた戦い。
アリューシャン方面の戦い | |
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キスカ島上陸に先立ち、アダック島に上陸するアメリカ軍。部隊はM1ライフルを装備し、戦艦ペンシルベニアが沖合いで上陸を掩護した。 | |
戦争:太平洋戦争、アメリカ本土戦線 | |
年月日:1942年~1943年 | |
場所:アリューシャン列島 | |
結果:日本軍がアリューシャン列島に上陸し占領したがその後放棄し連合国軍が奪還 | |
交戦勢力 | |
大日本帝国 | アメリカ合衆国 カナダ |
指導者・指揮官 | |
細萱戊子郎 角田覚治 秋山門造 木村昌福 古宇田武郎 山崎保代 |
トーマス・C・キンケイド フランシス・W・ロックウェル アルバート・E・ブラウン アーチボールド・V・アーノルド サイモン・B・バックナー・ジュニア チャールズ・マクモリス ジョージ・ペアークス |
アリューシャン列島は、太平洋戦争開戦時の連合艦隊作戦計画では、「占領または攻撃破壊すべき外郭要地」として定められていたが、これは十分に検討されたものではなかった。1942年、第一段作戦を終えた日本はAL作戦も含めた第二段作戦を立案した。
AL作戦の目的は、アメリカの北方路の進行を阻止するもので、米ソ間の連絡を妨害し、シベリアにアメリカ軍の航空部隊が進出するのを妨害しようとするものであった。1942年2月の図上演習では、当時開発されたとの情報があった米大型爆撃機が、アリューシャン列島の基地から帝都空襲をおこない、その一部が奇襲に成功するという結果が示されたことで、同方面の関心はさらに強くなった[1][2]。
また、同作戦によりミッドウェーとキスカ間に哨戒機を往復させてアメリカ海軍空母が近接するのを防ごうという意見の者もいたが、軍令部航空主務部員の三代辰吉も連合艦隊航空参謀の佐々木彰も、霧などの関係から到底そのような飛行哨戒は不可能と考え、全くその案は考慮しなかったと回想している[3]。
5月25日、アリューシャン攻撃部隊は空母「隼鷹」、「龍驤」を中心とする空母2隻、巡洋艦3隻、駆逐艦5隻の艦隊(細萱戊子郎中将、角田覚治少将)で大湊を出航した。続いて巡洋艦2隻、駆逐艦3隻、輸送船2隻のキスカ島攻略部隊が5月28日、巡洋艦1隻、駆逐艦3隻、輸送船1隻のアッツ島攻略部隊が5月29日にそれぞれ出航した。
アメリカ軍は暗号解読により日本軍の攻撃を知り、ロバート・シオボルド少将麾下の巡洋艦5隻、駆逐艦4隻をコジャック島方面に、駆逐艦9隻をウナラスカ島に配備した。
しかし1942年(昭和17年)6月3日から7日にかけて、日本海軍機によるダッチハーバーに対する空爆およびアッツ島、キスカ島の攻略が行われ、アメリカ軍を撃退した日本軍は両島を占領した。これは、アメリカにとって第二次世界大戦における初の領土(植民地を除く)喪失であった。このことは各地で敗北を重ねるだけでなく、アメリカ本土砲撃をはじめとする本土への攻撃を受けていたアメリカ国民の士気喪失につながるとして、軍および政府は強い危機感を感じた。
6月3日早朝、龍驤の攻撃隊がダッチハーバーのアメリカ海軍基地を空襲した。翌4日、日本軍は再度空襲を行い基地内外に大きな被害を与え、施設や宿舎などを炎上させた。日本軍は6月6日にアッツ島、7日にキスカ島に上陸し占領した。両島ともアメリカ軍の守備隊は存在していなかった。アメリカ軍は6月10日、アッツ島、キスカ島に日本軍が上陸していることを発見、爆撃機による空襲を開始した。12日には駆逐艦「響」が爆撃により損傷した。
日本軍の両島占領に対してアメリカ軍は反撃を強め、7月5日にはアメリカ潜水艦「グロウラー」の雷撃で駆逐艦「霰」がキスカ島沖で沈没し、駆逐艦「不知火」と「霞」が大破した。
さらに同日、アメリカ潜水艦「トライトン」の雷撃で、駆逐艦「子日」がニア諸島のアガッツ島サボック岬沖で沈没した。「霞」と「不知火」はそれぞれ7月27日と8月15日まで応急修理を続けた。
7月15日、キスカ島にてアメリカ潜水艦「グラニオン」が3隻の駆潜艇を攻撃し、そのうちの「第25号駆潜艇」と「第27号駆潜艇」を一撃で撃沈した。「グラニオン」はその後再度キスカ島に向かったところを、日本軍艦艇により反撃を受けて7月31日に撃沈された。
1942年8月7日(日本側記録では8日[4])、重巡洋艦「インディアナポリス」、「ルイスビル」、軽巡洋艦「ホノルル」、「セントルイス」、「ナッシュビル」、駆逐艦4隻からなるアメリカ海軍第8.6任務群(ウィリアム・スミス少将)がキスカ島に対する艦砲射撃を行った[5]。艦隊は8月3日にコディアックを出撃[6]。8月7日19時55分にまず駆逐艦が砲撃を開始し、続いて巡洋艦も砲撃を始めた[7]。視界の悪さなどのため、11マイルの距離(または重巡洋艦19500ヤード、駆逐艦14500ヤード[8])からの間接射撃となった[6]。弾着観測のため発進したシーガルのうち1機が二式水上戦闘機により撃墜された[6]。20時21分に射撃終了が命じられ、アメリカ艦隊は撤収した[8]。この砲撃で8インチ砲弾631発、6インチ砲弾3534発、5インチ砲弾2620発を消費したが、後日撮影された写真から、砲撃はほとんどが目標を外れていたことが判明している[9]。この艦砲射撃による日本側の被害は水上戦闘機1機破損、戦死者2名であった[4]。
日本軍はアッツ島の部隊をキスカ島に移動させ同島の守備を強化した。9月になるとアメリカ軍はアダック島に飛行場を建設し空襲を強化した。日本軍はアッツ島およびキスカ島の守備の強化のため10月から輸送作戦を繰り返し行った。10月17日にはキスカ島沖にて輸送作戦中の駆逐艦「初春」「朧」が空襲を受け、朧が沈没、初春が大破した。
1943年1月12日にアメリカ軍は、重巡洋艦「インディアナポリス」からなる艦隊の支援のもと、日米双方の守備隊が駐留していなかったアムチトカ島に上陸した。戦闘は発生しなかったが、駆逐艦「ウォーデン」が座礁し死傷者が発生した。アメリカ軍は現地に飛行場を建設しアッツ、キスカへの空襲を強化した。
1943年3月27日に、輸送作戦中の日本艦隊とアメリカ艦隊がコマンドルスキー諸島近海で遭遇、アッツ島沖海戦が発生した。本海戦の結果、日本軍は輸送作戦に失敗しアッツ島の玉砕の遠因となった。
1943年(昭和18年)に入ってから、アメリカ軍は本格的な反攻を開始し、1943年5月12日にアメリカ軍約11,000名がアッツ島に上陸した。自国の領土奪還をかけて大規模な兵力を投入したアメリカ軍に比べて、既にこの島の戦略的価値が低いと判断し、増強が行われていなかった日本軍の守備隊は山崎保代陸軍大佐以下2,665名とはるかに小規模だった。
5月13日に、駆逐艦「エドワーズ」および「ファラガット」の爆雷と砲撃で「伊号第三一潜水艦」がアッツ島沖で戦没。4倍近い兵力を持つアメリカ軍の攻撃によりアッツ島の日本軍は29日に全滅した。
元々戦略的価値が低いと判断し兵力増強を怠っていたアッツ島の全滅により、同じく兵力増強が行われていなかったキスカ島の維持も困難と判断した日本軍は、同島の放棄と撤収を決めた。
まず、潜水艦による撤収が行われたが、被害の増加により中止された。7月7日に軽巡洋艦2隻、駆逐艦11隻などからなる撤収部隊(木村昌福少将)が幌筵島を出発した。しかし、晴天続きのため16日に収容を断念し帰還した。
7月22日に撤収部隊は再度出撃した。29日に撤収部隊はキスカに入港し、霧が発生したものの作業には何の障害もないままに守備隊を収容して帰還した。この時、アメリカ艦隊は霧の中でレーダーに映った「日本艦隊(実際はレーダーの誤反応とされる)」に対して攻撃を行い、弾薬不足となったためいったんキスカ島の封鎖を解いていた。
キスカ島からの撤退に日本軍が成功し、もぬけの殻となったことに気づかないままアメリカ軍は艦砲射撃を繰り返した後、8月15日にキスカ島にカナダ軍と合わせて約35,000名の兵力で上陸した。この際、同士討ちで米加両軍に100余名の死者が出た。
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