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日本の広島県宮島の郷土菓子 ウィキペディアから
日本三景のひとつ、厳島(安芸の宮島)の名物であり土産品である。現在では宮島のみならず広島県を代表する土産菓子として全国的に知名度が高い。2009年に朝日新聞が会員サービス「アスパラクラブ」内で行ったアンケート調査「日本一のまんじゅうは?」で全国1位[1][2]、各種の「全国お土産ランキング」でも上位の常連で、1位をとることもある。
もみじ饅頭は明治時代後期の和菓子職人、高津常助によって考案されたが(→「歴史」節参照)、独占をしなかったため、大手もみじ饅頭メーカーや宮島島内の小規模メーカーの他、イオンやセブン&アイ・ホールディングスのような流通企業のプライベートブランドからも同一の「もみじ饅頭」の名称で製造・販売されている。知名度のある土産物は単一メーカーの製造ということも多く(赤福餅・ロイズの生チョコ・名菓ひよ子(ひよ子饅頭)など)、「お土産ランキング」ではもみじ饅頭が不利になるという指摘もある[3]。複数のメーカーのもみじ饅頭を比べる楽しみがあるともいえる。
宮島には焼きたてのもみじ饅頭を供する店舗が軒を連ねている。
宮島にある紅葉の名所、紅葉谷(もみじだに)にちなんだ名物ということで名付けられた(起源の節参照)。表記は「もみじ饅頭」が一般的だが、商品によっては「もみじまんじゅう」とも表記する(後藤製菓、藤い屋など)。これは他の多くの饅頭と同様、土産品として親しみをもたせるために平仮名で表記していると考えられる。「紅葉饅頭」や「紅葉まんじゅう」とは通常は表記しない。元祖の高津堂は「もみぢ饅頭」と、「じ」ではなく「ぢ」で表記している。
略称として、「もみまん」と呼ばれることがある。 「もみまんソフト」というもみじ饅頭味のソフトクリームや、老舗である後藤製菓から萌えイラストをあしらった「もみまん。」なる商品が発売されるなど、「もみまん」の語が公然と使用される例が出てきている[4]。
小麦粉・卵・砂糖・蜂蜜を原料とするカステラ状の生地で餡を包み、モミジの葉をかたどった型に入れて焼き上げる。餡はこしあんが基本で、製法についてはどの製造元でもほぼ同一である。
1960年代までは、一つ一つ手で焼き型を押さえて焼き上げていたが、大型の機械で焼き型を次々に回転させる「もみじ饅頭焼成機」を広島市内の業者が開発してから、どの店でも一定の品質を保ったもみじ饅頭の製作が可能になった。機械の開発に合わせて餡を大量・均質に整形する必要が出てきたため、宮島の菓子組合加盟10社が共同で餡の自動整形機を開発するということもあった。現在の焼成機はガス加熱式が主流で、多いものは1時間あたり2500個の製造能力がある[5]。島内のもみじ饅頭メーカーや土産品店の店頭では、この焼成機で次々にもみじ饅頭ができる様子を見ることができる。島外でも、広島駅前の福屋百貨店や山陽自動車道の福山サービスエリア上り線などで見られる。
現在でも少数ながら、職人が店頭で焼き型を使って手焼きし、販売している店舗もある(「ミヤトヨ本店」ほか)。宮島島内にはもみじ饅頭手焼き体験ができる施設もある。
誕生当初は「こしあん」入り・カステラ状生地の焼き饅頭のみであった。現在ではこれに加えて、非常に多くのバリエーションがある。商品名は店によって異なるが、チーズ入りなら「チーズもみじ」、抹茶あん入りなら「抹茶もみじ」というように、「○○もみじ」という名称で呼ぶことが一般的である。2000年代に入ると、餡の種類だけでなく生地を変えたり(例:黒もみじ)、製法に変化を取り入れたり(例:生もみじ・揚げもみじ)といった工夫も見られる。
常に新商品の開発が続いている。
宮島島内やJRおよび広電宮島口駅、土産物店のほか広島市内の百貨店や広島駅ビル、メーカー直営店で豊富な種類が手に入る。山陽新幹線の車内販売メニューにもある。
福山市などの広島県東部(備後地方)でも有名メーカーのものが多く売られている。県外では広島県のアンテナショップや一部のコンビニエンスストア(ファミリーマートなど)で売られているほか、大手流通企業のプライベートブランドの菓子商品にもみじ饅頭が入っていることがある。
商品やメーカーにより、 通信販売で購入する事も出来る。
もみじ饅頭を発案した人物は明治後期の厳島(宮島)の和菓子職人、高津常助とされている[9]。島内の名所・紅葉谷の旅館「岩惣」にはその頃、皇太子である嘉仁親王(後の大正天皇)や大韓帝国皇太子(のちの純宗)・伊藤博文・夏目漱石ら要人が多く投宿していたが[10]、この岩惣に和菓子を納入していた高津は、宿の女将・栄子から「大切なお客様への手土産に、紅葉谷の名にふさわしい菓子が作れないか」と依頼され、試行錯誤の結果1906年(明治39年)に「紅葉形焼饅頭」を完成させた。4年後の1910年(明治43年)7月18日には商標登録しており、この商標登録証は常助の孫の元に残っている。このとき登録された焼き型は「7つの切れ込みのある葉に短い葉柄があり、二頭の鹿を描いた」という凝った意匠であり、今日のもみじ饅頭とは趣が異なるが、しばらくして高津はより現在の形に近い焼き型を使い始め、この焼き型も商標登録証とともに保管され現存している。呼び名も、常助の代にはすでに「もみじ饅頭」と呼ばれ始めていたと本人が子孫に語っている[11]。なお、孫である加藤宏明が2009年の7月18日に、残っていた焼き形を使って元祖もみぢ饅頭を復活させた。現在、宮島ではなく本土の宮島口にて、元祖もみぢ饅頭「高津堂」としてもみぢ饅頭の製造販売をしている。なお、高津堂は元祖復活の思いから今でも一つずつ手焼きしている。
もみじ饅頭の起源には伊藤博文がかかわっていたという説があり、今日でも広く流布している。内容は
というものである。伊藤は当時から厳島びいきで知られ、たびたび島に滞在していた上(厳島の項目を参照)、当時すでに総理大臣を辞して大勲位にあって「女好きの好々爺」というイメージが民衆の間に確立していたことから、この説は広く受け入れられた。現在でも、大手もみじ饅頭メーカー(例えばやまだ屋:もみじ饅頭の由来 at the Wayback Machine (archived 2013年11月25日))や地元の宮島観光協会(宮島観光協会:もみじ饅頭)が由来として掲げるほど親しまれている説である。実際にはそのようなエピソードの記録は公式に残っているわけではない。前述の高津常助はこのあたりの状況を熟知していると考えられるが、伊藤とのつながりを認めたことはない(ただし否定したこともない)。そのため「茶屋の娘へのお色気冗談」説は、あくまで俗説・噂にとどまる。ただし高津の和菓子屋「高津堂」は伊藤の定宿である岩惣の門前にあり、取引先の岩惣の依頼でもみじ饅頭を考案したのであって、高津と伊藤が互いを認識していた可能性はある。またマスコミや記録媒体が発達途上であったこの時代、休暇中の伊藤の冗談まですべて記録することには無理があり、この冗談もすべて創作と断じることはできない。
商標権の有効期間は当時20年間であったが、高津は権利の更新を行わなかった。高津は職人気質で、「技や味は盗むもの」として息子で二代目の高津昇にももみじ饅頭のレシピなど一切伝えなかったという。昇は試行錯誤したものの求める味にたどり着かず、「親父の名前を汚したくない」としてもみじ饅頭の製造販売自体を取りやめてしまった[12](現在、常助の孫である三代目が廿日市市宮島口に元祖もみぢ饅頭「高津堂」という店舗を開いている)。ただ、常助は宮島の菓子組合中長も務めていたこともあり、職人育成にも力を注ぎ、もみじ饅頭を高津堂だけのものとせず宮島の名物になるようにという思いから、もみじ饅頭はたくさんのお店が作るようになり広まっていった。
このようなことで、島の土産品店などでも型さえあれば製造・販売が可能になった。当時は一つ一つを型に挟んで焼き上げる手焼きで、店や職人の腕によって大きさも品質もまちまちであった。現在も製造している業者の中では、明治末期に創業した「岩村」(現在の岩村もみじ屋)が最も古い部類に入る。岩村もみじ屋によると、岩村の主人と高津常助が一緒に岩惣にもみじ饅頭を納入していた時期もあったという[13]。
1925年(大正15年)から翌年にかけ、「勝谷」「藤井」(現在の「藤い屋」)が製造販売を開始。名称は「宮島饅頭」「紅葉型饅頭」などいくつかあったが、大正の終わり頃には「もみじ饅頭」に統一された。その後、1932年(昭和7年)に「山田商店」(現在のやまだ屋)が、翌昭和8年に「木村屋」ほか数軒が製造開始。戦前はすべて宮島島内のみの製造販売で、製造元は全部で12軒だった。本来の意味の「元祖もみじ饅頭」である高津堂が早期に製造をやめてしまったため、複数の店舗が「元祖もみじ饅頭」を名乗る事態が現在まで続いている。
はじめはこしあん入りのみであったが、昭和初期にはつぶあん入りが考案された。1934年(昭和9年)5月10日に高松宮宣仁親王が厳島を訪れた際、岩村もみじ屋の初代・岩村栄吉に「つぶあんはないのか」と所望したのがきっかけで誕生した。このため岩村もみじ屋は「元祖つぶもみじ」を名乗っている。
戦後の混乱期を経て宮島への観光客が再び増加しはじめるともみじ饅頭の需要も増え、徐々に知名度が上がった。日本各地の銘菓を参考に栗あん・抹茶あん入りも考案された。最大手メーカーのにしき堂は1953年(昭和28年)創業である。にしき堂の本社は広島駅近くの松原町(後に駅の反対側である東区光町に移転)であり、戦後は製造元が宮島以外というケースが増えていく。
1954年(昭和29年)、宮島でプロパンガスの利用が始まり生産性が向上した。1961年(昭和36年)以降、もみじ饅頭製造の機械化が進展し、広島市内の業者が開発した大型焼成機によって大量生産が可能となっていく。1975年(昭和50年)には山陽新幹線が全線開業し、広島・宮島エリアの観光は質・量ともに大きく変化した。もみじ饅頭は宮島島内から出て、新幹線の車内販売や広島駅ビルの土産物コーナーにも陳列されるようになった。
1980年代の漫才ブームの中、1980年10月頃からお笑いコンビ「B&B」のネタとして、島田洋七が「モミジマンジュウ!」と言うと相方の島田洋八が「きびだんご!」と返して互いに譲らないというギャグが流行すると、もみじ饅頭の知名度は爆発的に上がり「もみじ饅頭ブーム」が訪れた[14]。ブームに乗って売り上げは飛躍的に伸び、1984年に「チーズもみじ」が発売されたのを皮切りにカスタードクリーム入り、チョコレートクリーム入りなど多くのバリエーションが生み出された。
1990年代に大ヒットしたゲームソフト『ぷよぷよ』の開発元であるコンパイルは、広島に本社を構えていた(一時期は宮島対岸の、当時の佐伯郡大野町[注 1]に本社を構えた)ことから、同ソフトのキャラクターである「ぷよぷよ」をかたどって、もみじ饅頭製造機の焼き型とした「ぷよまん」を1994年12月3日に発売した。生地や餡に独自の工夫はあるものの、もみじ饅頭とは焼き型が異なるだけで製法は同一である。1997年11月29日、宮島への玄関口である宮島口フェリー乗り場近くに「元祖ぷよまん本舗」を開いたのを皮切りに、同社は広島市内の本通商店街や広島駅ビル、遠くは幕張メッセでの東京ゲームショウ等に「元祖ぷよまん本舗」を構えて、自社グッズとともにぷよまんを販売した。ぷよまんは派生商品としては異例のヒット商品となったが、ぷよぷよブームの終結やコンパイルの倒産に伴い、2003年を最後に製造・販売が打ち切られた(その後別名で復刻、後述)。
大手をはじめ約20社のメーカーが伝統の味を受け継ぐ一方で、趣向を凝らした新しい商品を開発している。上記のように新しい餡を開発したものの他、生地や製法にも競って新たなアイデアを取り入れており、カステラ状の生地にレーズンを織り込んでそのまま焼き上げた洋菓子風味のものや表面にチョコレートを塗ったもの、もみじ饅頭を衣につけて揚げる「揚げもみじ」やもみじ饅頭ソフトクリームなど、従来の概念を覆すような商品も登場している。ご当地キティや人気漫画のキャラクターなどをパッケージに取り入れた商品も多い。
地元廿日市市の酒造メーカー中国醸造は2013年11月にリキュール「もみじ饅頭のお酒」を発売した[15]。卵黄や蜂蜜を使った甘い風味のこしあんとカステラの味の酒という意外性が話題となり、予想の2倍近い売上げのヒット商品となった。2014年にはチョコレート味とクリーム味の「もみじ饅頭のお酒」も発売され、初回出荷分が即日売り切れる人気で全国紙でも報道された[16][17]。
その一方で伝統的な手焼きのもみじ饅頭を店頭で職人が実演してみせる店や、観光客が手焼き体験を楽しめる店もあり、もみじ饅頭の楽しみ方そのものが多様化しているといえる。
奥田民生の50歳を祝うスペシャルライブ「ユニコーン奥田民生50祭 “もみじまんごじゅう”」と、やまだ屋のコラボ「ユニコーンもみじ饅頭」が2015年5月11日から発売されたこともある。
2023年4月29日には、上記「ぷよまん」について、「ぷよまん」としての販売当時のものと同じ木型を使った商品が「ぷよぷよまんじゅう」の名で復刻され、広島県内の和菓子店「平安堂梅坪」から販売が再開された[18][19]。こちらは県内の販売店やインターネット販売だけでなく、『ぷよぷよ』関連のeスポーツ会場でも販売が行われている[20]。
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