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大日本帝国海軍の軽巡洋艦 ウィキペディアから
龍田(たつた)は、日本海軍の二等巡洋艦[3]。天龍型の2番艦で[5]、「天龍」と共に日本海軍初の軽巡洋艦[4]。艦名は奈良県の竜田川から名づけられた[32]。この名を持つ日本海軍の艦船としては2隻目にあたる[32]。
龍田 | |
---|---|
竣工年の「龍田」(1919年8月25日、佐世保軍港)[1] | |
基本情報 | |
建造所 | 佐世保海軍工廠[2] |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
艦種 | 二等巡洋艦[3](軽巡洋艦)[4] |
級名 | 天龍型[5] |
建造費 | 成立予算 4,550,000円[6] |
母港 | 佐世保[7] → 舞鶴[8] |
艦歴 | |
計画 | 1915年度成立予算(八四艦隊案の一部)[6] |
発注 | 1916年5月12日製造訓令[9] |
起工 | 1917年7月24日[2][10] |
進水 | 1918年5月29日[2][11] |
竣工 | 1919年3月31日[2] |
最期 | 1944年3月13日戦没 |
除籍 | 1944年5月10日[8] |
要目 | |
基準排水量 | 公表値 3,230トン[2] |
常備排水量 |
3,495トン[12]、または3,499.5トン[13][注釈 1] 公表値 3,500トン[2] 1934年 3,647.8トン[14] |
公試排水量 | 4,168.5トン(1919年5月26日)[15] |
満載排水量 | 1934年 4677.5トン[14] |
全長 | 468 ft 0 in (142.65 m)[16] |
水線長 | 456.923 ft 0 in (139.27 m)[13] |
垂線間長 | 440 ft 0 in (134.11 m)[16] |
最大幅 |
40 ft 9 in (12.42 m)[13][17] または40 ft 6 in (12.34 m)[16] |
深さ | 24 ft 6 in (7.47 m)[16] |
吃水 | 常備平均13 ft 0 in (3.96 m)[16] |
ボイラー |
ロ号艦本式重油専焼水管缶大6基、小2基[18] 同石炭・重油混焼水管缶2基[18] |
主機 | ブラウン・カーチス式オール・ギヤード・タービン(高低圧)3基[19] |
推進 |
3軸 x 400rpm[18] 直径10 ft 0 in (3.05 m)[18]、ピッチ3.137m[20] |
出力 |
計画:51,000SHP[16] 58,690SHP[21][22] |
速力 |
計画:33ノット[16] 公試:32.765ノット[21][22] |
燃料 |
重油:920トン[16] 石炭:150トン[16] |
航続距離 | 5,000カイリ / 14ノット[16] |
乗員 |
竣工時定員337名[23] 1919年公表値 332名[17] |
兵装 |
竣工時 50口径三年式14cm砲4基4門[24] 40口径8cm高角砲1門[24] 三年式機砲2挺[24] 六年式(53cm)3連装発射管2基6門[25] 四四式二号魚雷12本[25] 八一式爆雷投下台2基、4個載2基、手動1個載2基[25] 中型防雷具2基[25] 機雷投下軌道2条[25] 九三式機雷56個[12] 須式90cm探照燈 2基[26] |
装甲 |
舷側:上部51mm(25.4mmHT鋼2枚)、下部63mm(25mm+38mmHT鋼)[27] 甲板:16-25mmHT鋼[28][注釈 2] 司令塔:51mmHT鋼[28] |
搭載艇 | 30ft(フィート)内火艇1隻、30ftカッター3隻、27ft通船1隻、20ft通船1隻[29] |
その他 |
信号符字:GQJT(竣工時)[30] (無線電信)略符号:JLQ[31] |
公試排水量(メートル・トン)を除いてトンは英トン |
竣工時の艦型は天龍型軽巡洋艦#艦型も参照。
天龍との識別点として、
などがある。
1923年(大正12年)4月[33]、3番砲の前方に方位測定室を設けて(方位測定用の)空中線を装備した[28]。 空中線の形状は短冊形(長方形)になっている(天龍は菱形)[28]。
1932年(昭和7年)から翌年、または1935年(昭和10年)頃に魚雷発射管は移動式からその場で旋回する形に改め、装備位置が高められた[28][34]。
1933年(昭和8年)4月16日から5月25日まで佐世保海軍工廠で改装を行った[33]。羅針艦橋の側壁を鋼製の固定式に改め、窓ガラスが設置された(従来はキャンバスで覆う形)[35][33]。 前面の側壁は垂直であり、天龍(上方が前方に出ている)との識別点になる[34]。 なお、天蓋はキャンバスのままだった[36]。 また前部マストを三脚式に改め(従来は単マスト)、マスト・トップを若干短縮し、クロスツリーを設けて保持する形に改めた[35]。
1936年(昭和11年)11月10日から18日に艦橋周囲に防弾板を設置し、中国方面へ進出した[33]。 1937年(昭和12年)7月に[33]九三式13mm機銃2挺[37]が1番煙突前部の左右に1挺ずつ装備された[38]。
龍田は1938年(昭和13年)12月15日に予備艦となり1940年(昭和15年)11月15日に艦隊に復帰(第18戦隊を編成)した間に[39] 羅針艦橋天蓋を固定化した[38]。 また同じ時期に方位測定用の空中線はループ型に変更された[40] (1937年(昭和12年)頃とする文献もある[34])。 混焼缶(ボイラー)は最後まで混焼缶のままとする文献と[34]、重油専焼化されたとする文献がある[40]。 なお、艦橋上の探照灯台ブルワークは前方に延長され、天龍との識別点になっている[34]。
昭和16年度(1941年)の第18戦隊時には2番艦として1番煙突に2本の白線を描いていた[41]が、 開戦時には消された。
開戦時の兵装は以下と推定される[42]。
開戦以後の変遷は以下のとおり[42]。
1944年3月の最終時の兵装は以下と推定される[42]
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八四艦隊案の一部として長門、谷風など共に予算が成立した[6]。仮称艦名は「第2号小型巡洋艦」[43]、1916年(大正5年)5月13日龍田(たつた)と命名される[44]。 1917年(大正6年)7月24日佐世保海軍工廠で起工[10]、1918年(大正7年)5月29日午前10時進水[11]、1919年(大正8年)3月31日に竣工した[2]。佐世保鎮守府籍[45]。 同日、利根に代わり第一艦隊第一水雷戦隊に編入された[46]、
1923年(大正12年)8月30日龍田は裏長山諸島の錨地に向かう途中の午後6時30分、海図に記載の無い暗礁に触れて船体と機関を若干損傷した[47]。 9月1日に損傷修理のために同地発[48] 3日佐世保に帰港[49]、 6日から入渠し、損傷修理を行った[48]。
関東大震災(9月1日)後、海軍は呉を母港とする艦艇は半数が輸送任務[50]、 佐世保を母港とする艦艇は呉で待機する方針をとった[51]。 佐世保を母港とする龍田は13日の時点では呉方面に在り[52]、 21日まで同方面に在泊した[53]。 17日に第一水雷戦隊各艦も救援活動に向かうことが決定し[54]、 龍田は21日から22日に佐世保へ帰港[55]、 9月23日(午前6時30分[56])出港[57][注釈 4]、 救援物資として測量艇2隻、木材、医薬品、毛布などを搭載していた[58]。 25日に横須賀で、26日に品川で救援物資を揚陸し、27日(午後2時[59])、横浜港に入港した[57]。 以後横浜で警備活動に従事[57]、 この時に軍医2名看護兵3名の計5名が停泊中の華山丸に収容した病人けが人、計115名の診療を行った[60]。 龍田は10月4日、第一水雷戦隊所属の各駆逐艦と共に横浜を出港、佐伯に向かい[61]、 龍田の救援活動は終了した[57]。
1923年12月1日、予備艦となる[45]。
1924年(大正13年)3月19日、佐世保港外で佐世保鎮守府第1回基本演習がおこなわれた[62]。第四十三号潜水艦が潜水艦母艇見島を仮想敵(輸送船)として襲撃行動を実施中、見島に後続していた龍田と衝突した[62][63]。司令塔下のハッチが閉鎖されていなかったため、第43号潜水艦は浸水して沈没した[62]。乗組員45名[注釈 5]全員が殉職した[64][65]。衝突原因は第四十三号潜水艦が見島への襲撃に没頭し、見島に後続していた龍田に気付かなかったためという[62]。
1925年、紡績工場での労働争議に端を発した上海の治安悪化に伴い、6月6日に「龍田」は佐世保を発して7日に上海に着き、「龍田」と翌日到着した駆逐艦「葦」、「菫」から陸戦隊が合計230名上陸した[66]。なお、「龍田」は6月6日に第一遣外艦隊に編入されている[45]。8月には陸戦隊の兵力縮小が決まり、「龍田」は陸戦隊を収容して8月27日に上海を離れて29日に佐世保に着いた[67]。8月31日、予備艦となる[45]。
1926年12月1日、第一艦隊第一水雷戦隊に編入[45]。1927年12月1日、予備艦となる[45]。1929年11月30日、佐世保鎮守府部隊に編入[45]。1930年12月1日、予備艦となる[45]。1931年12月1日、佐世保鎮守府部隊に編入[45]。1933年12月1日、佐世保警備戦隊に編入[45]。1934年11月15日、第三艦隊第五水雷戦隊に編入[45]。1935年11月15日、予備艦となる[45]。1936年11月20日、第三艦隊第十戦隊に編入[45]。
1937年(昭和12年)7月8日から1938年(昭和13年)12月15日まで日中戦争で中国沿岸で行動した。
1937年10月20日、第四艦隊第十四戦隊に編入[45]。12月1日、第三艦隊第十戦隊に編入[45]。1938年7月1日、第五艦隊第十戦隊に編入[45]。12月15日、予備艦となる[45]。
1940年(昭和15年)11月15日の戦時編制改定により、第十八戦隊は巡洋艦3隻(鹿島、天龍、龍田)によって再編された。
1941年(昭和16年)9月1日、舞鶴を出港しトラックに進出した。戦争勃発前の編制変更により鹿島は第四艦隊の旗艦として独立、第十八戦隊は天龍型軽巡2隻(天龍、龍田)となった。 12月8日太平洋戦争の開始によりウェーク島攻略のため援護部隊としてクェゼリン環礁を出撃した。12月11日に行われたウェーク島攻略戦では日本軍は如月、疾風と2隻の駆逐艦を失い作戦は失敗に終わった。「龍田」はアメリカ戦闘機の銃撃によって死者1名、負傷者9名を出した[68]。12月21日、2度目のウェーク島攻略作戦のため龍田を含む攻略部隊はクェゼリン環礁を出撃した。22日から23日にかけて行われた戦いで日本軍はウェーク島を占領した。
1942年1月3日、第十八戦隊はトラックに入港[69]。1月、ラバウルとカビエンの攻略作戦が行われた。第十八戦隊は第二十三駆逐隊などと共にR攻略部隊の支隊となり、カビエン攻略を行うこととなった[70]。R攻略部隊支隊は1942年1月20日にトラックより出撃し、1月22日にカビエンに到着[71]。敵のいないカビエンを占領した[72]。1月25日からは周辺地域の掃蕩が行われた[73]。「天龍」は1月25日にウエストハーバー付近、1月26日にチングオン島、エミラウ島、1月28日にタバール島の掃蕩を行った[74]。2月9日にはスルミ、ガスマタ上陸が行われ、第十八戦隊はその掩護にあたった[75]。2月11日、カビエンに帰投[76]。以後、周辺の残敵掃蕩を行った[76]。
2月17日、第十八戦隊はトラックに向けカビエン発[76]。2月19日にトラックに到着し、「龍田」と「天龍」では13ミリ単装機銃2基の25ミリ連装機銃2基への換装と5センチ礼砲の撤去が行われた[77]。
次はラエ:サラモア攻略作戦(SR作戦)で、第十八戦隊は第六戦隊、第二十三駆逐隊と共に支援部隊となった[78]。支援部隊は3月2日にトラックを発し、3月5日にラバウル着[79]。ラエ・サラモア攻略にあたるSR方面攻略部隊は3月5日にラバウルを出撃し、3月8日日にラエ・サラモアに上陸した[80]。支援部隊も攻略部隊に続いて3月5日に出撃し、攻略部隊の間接支援を行った後ブカ島へ向かった[81]。3月9日にブカ島沖に着き、翌日にかけて掃蕩や内火艇によるクインカロラ湾の測深などを実施[82]。3月10日にラバウルへ向かって翌日到着[83]。その後、敵機動部隊来襲に備えて再びクインカロラ湾に進出するが、3月18日にカビエンに移った[84]。
6月にはポートモレスビー攻略作戦のため出撃したが珊瑚海海戦の結果作戦は中止された。
1942年12月24日、第八艦隊附属となった[45]。
1943年(昭和18年)4月1日、練成部隊として第一艦隊第十一水雷戦隊が結成され、龍田はこの部隊の旗艦となった(この頃には最早天龍型が旧式などという贅沢は言っていられない時期であった)。
1944年(昭和19年)3月12日、「龍田」はサイパン島への輸送作戦である東松2号船団の護衛部隊旗艦として横須賀を出港。翌13日3時頃、八丈島沖で強風と波浪で視界不良のためアメリカ潜水艦「サンドランス」の発見が遅れ雷撃を許した。「サンドランス」は「龍田」と海軍徴用輸送船「国陽丸」に向け艦首から4本、艦尾から2本の6本の魚雷を発射し、「国陽丸」に1本、「龍田」の右舷に1本命中した。「龍田」はこの雷撃で後部機械室と罐室が破壊され、航行不能に陥った。懸命の応急修理が試みられたが船体の老朽化もあって浸水が止まらず、雷撃から約12時間後の15時36分に沈没した[85]。
龍田は同年5月10日に除籍された[8]。
※『艦長たちの軍艦史』131-133頁、『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。階級は就任時のもの。
料理の「竜田揚げ」は、当艦の料理長が発明したものだとする説がある。ある日、龍田の料理長はフライを揚げる予定だったが、小麦粉が無いことに気づき、小麦粉の変わりに、片栗粉を使用したら、船員達に好評だった事から竜田揚げになったと言う説である。[94][要検証]。
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