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岩手県、宮城県等で受け継がれる伝統舞踊 ウィキペディアから
鹿踊(ししおどり、しかおどり)は、江戸時代の南部氏領(盛岡藩陸奥国領)、および、伊達氏領(仙台藩・一関藩の陸奥国領、および、宇和島藩伊予国領)、すなわち現在の岩手県、宮城県、そして愛媛県宇和島市周辺で受け継がれている郷土芸能。
鹿舞(ししまい)という呼称ながら、福島県にも類似の踊りもある[1][2]。
農漁村の共同体の祭りで披露される舞踊としての歴史が長いが、これらとは異なる共同体である学校の部活動の1つにもなっている。これは、高度経済成長期より観客を集める祭りやイベントが多数開催された影響もある。
同様の踊りを指す発音には「ししおどり」および「しかおどり」がある。漢字表記については以下のようになっている。送り仮名「り」を付ける場合もあるが、以下では省略。
表記 | 発音1 | 発音2 |
---|---|---|
鹿踊 | ししおどり | しかおどり |
鹿躍 | ||
獅子踊 | - | |
獅子躍 | ||
鹿子踊 | ||
鹿子躍 |
シカの頭部を模した鹿頭とそれより垂らした布により上半身を隠し、ささらを背負った踊り手が、シカの動きを表現するように上体を大きく前後に揺らし、激しく跳びはねて踊る。
踊り手が演奏を行うかどうかで、大きく2つの系統に分けられる。踊り手が演奏を行わない「幕踊系」では、踊り手は鹿頭から垂らした布幕を両手に持って踊り、踊り手とは別に祭囃子の演奏者がいる。踊り手が演奏を行う「太鼓踊系」では、腹につけた締太鼓を叩きながら踊る。「幕踊系」は主に旧南部氏領(盛岡藩)すなわち岩手県北部から中部[3]に分布し、「太鼓踊系」は主に伊達氏領(仙台藩・一関藩・宇和島藩)すなわち岩手県南部から宮城県[3]、そして愛媛県宇和島市周辺に分布する(宇和島の鹿踊については「鹿踊 (宇和島市)」参照)。鹿踊は剣舞と一対で伝えられている例が多いが、仙台市より南では剣舞は見られない[4]。また、鹿頭はほとんどの地方のものが大陸から渡ってきた獅子と鹿の中間であるのに対し、岩手県田野畑村と四国宇和島の鹿頭は野生鹿を象っている[5]。
なお、静岡県川根本町には「鹿ん舞」と呼ばれる鹿踊りがあり、鹿頭をつけた鹿を農民が追いかける姿を演じた踊りで、農作物を荒らす獣を追い払い豊作を祈願したのが始まりとされ、「徳山の盆踊り」(重要無形民俗文化財)の一部として披露される[6]。
様々な説があり特定できないが、起源伝承に念仏踊りと共通するところがあり、発生の原点は念仏踊りで、伝承の経路には山伏修験者が介在していたことを思わせる[7]。概括的に見る限りでは、命を失ったものの怨霊を鎮魂し、祖霊精霊の供養のためと思われる[7]。各地に伝わる由来については以下のようなものがある。
「太鼓踊系」は大きく行山流(ぎょうざん)、金津流(かなつ)、春日流(かすが)の3つに分類される[11]。このうち最も古い行山流から、金津流および春日流が分派し、行山流においても諸派(仰山流、行山(仰山)流山口派、奥野流、奥山行山流、皆白行山流、早川流ほか)に分かれた[12]。行山流は現・宮城県本吉郡南三陸町志津川[13]、金津流は現・宮城県仙台市泉区(旧・宮城郡国分松森村)[14]、春日流は現・岩手県花巻市東和が発祥地と考えられている。伊達氏に認められた流派では、衣装や締太鼓に伊達家の家紋である「九曜」「竹に雀」「竪三引両」等が染め抜かれている。伝統的な踊りは神社での神事やお盆に際して行われ、鹿頭をかぶった踊り手が8人(八ツ鹿踊)ないし12人集まり、仲立を中心に各々が役回りを持った演目が舞台に見立てた場所で踊られる。現代では祭りのパレードにも参加するようになり、行進しながら踊る踊り方も開発された。奥州市江刺では100人の踊り手がシンクロした踊りをする「百鹿大群舞」も生まれた。
岩手県の県南広域振興圏にある主要都市では大きなイベントが行われている。また、地域の祭事・イベントで鹿踊りが舞われている。
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