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金沢市の地名 ウィキペディアから
金沢港の西部に位置する古くからの港町で、金石の地名が付けられる前は宮腰と呼ばれていた地域である。金石の街中は古くからの町並みが残っており、金沢市による「こまちなみ保存区域」に指定されている。
1943年(昭和18年)に旧金石町周辺の大野村及び二塚村とともに金沢市に編入合併して金沢市の地域となる。金沢市に編入してからは旧金石町の各町名は金石と付けられ、金沢市の町名として継承された。1968年(昭和38年)に住居表示制度の導入により町名および地番の整理が行われ、30ほどの金石と付いた町名が5つに再編された。
2018年(平成30年)11月1日、金沢市の旧町名復活運動により金石西二丁目、三丁目、四丁目の各一部が3つの旧町名として復活した[1][2][3]。旧町名復活運動で復活したのは、2009年(平成21年)の「下新町」「上堤町」以来9年ぶりとなった[2]。なお、2019年(令和元年)秋にはさらに3町が復活する[2][3]。
金石(旧宮腰)は北前船の寄港地で繁栄した地域で、かつて銭屋五兵衛を代表とする商人が金石を拠点に商業活動が盛んに行われた。加賀藩時代、前田利家が宮腰から金沢城へ入城した縁もあり加賀藩の外港として優遇を受けていた。加賀藩の外港で材木などの物資の物流拠点として繁栄する。しかし、隣接する大野港にも外港機能があり、大野村(加賀藩期)と宮腰町の間で様々な利権の対立が絶えなかった。このような状況を見兼ねた加賀藩は宮腰町と大野村を地域として融合させようと1866年(慶応2年)に両地区を合併させた。「固いこと金石(きんせき)の交わり」(固い約束の意味)から金石(かないわ)を町名として採用した。これが、金石の由来となる。宮腰地区は金石町本町となり、1889年(明治22年)の町村制施行後は石川郡上金石町になる。
しかし、旧宮腰と大野両地区が融合したかに見えたが、世間では旧宮腰地区が金石と通用されるようになり、同じ金石を町名に採用した大野地区(石川郡下金石町)は様々な不都合が生じるようになった。大野地区はやがて当時の石川県庁や明治政府に町名変更を請願するようになり、その結果1898年(明治31年)3月12日に大野地区が大野町に名称を変更して、金石の地域は本来の宮腰地域に限ることになる。
1920年(大正9年)6月1日に下金石町から金石町に名称を変更して、金沢市編入以降も金石の町名・地区名は使われ続けている。1898年(明治31年)に金石馬車鉄道(後の北陸鉄道金石線)の開業以降は港町の繁栄に陰りが見え、港で繁栄した商業は変わらざるを得なくなる。北陸鉄道金石線の廃止以後、並行している金石往還(現在の石川県道17号金沢港線)が拡幅され、金沢の幹線道路として形成されている。
いずれも住居表示を導入している。
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